日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

ぽつぽつ。ぱらぱら。ざあざあ。しとしと。

時に。雨はお好きでございますか?
おそらく、NOという言葉が聞こえてくるのではないでしょうか。
折角のお召し物が濡れてしまいましたらばその日の気分も台無しですし、太陽が見えないとなんとなく鬱屈としてしまう、というのは誰しもが抱く感情でしょう。そもそも、傘という荷物が増えるのもあまりスマートではございませんしね。
お屋敷の使用人たちも、朝から雨が降っている日は心なしか顔色が悪いように見えます。偏頭痛で頭を抱える使用人も若干名。あ、これは違う話か。
ともかく、一般的に雨というのは望まれない天気であるかと存じます。
「嫌な天気」という不名誉な称号も得ていることですしね。

さて。
そんな嫌われ者の雨でございますが、私はそんな彼らと相対した時、密かに楽しんでいることがございます。
……それは”雨音”でございます。
いや正確には”雨音を表現する”と言った方が適切でしょうか。

窓や屋根、傘や地面を叩く雨音に耳を澄まし、その雨音を自身の素からまろび出たオノマトペで表現するのです。
それの何が楽しいのか。
一言で言うと、自分を再認識する、自分探しの一種でございます。
耳というデバイスで集音し、鼓膜を震わせた雨音と言う波を、脳というCPUで理解し、判断し、アウトプットする。
まさにその時、既存の価値観に囚われない、自身の、何者にも侵されない絶対的で根源的な判断を持って、表現する。

本当に、
小雨はぽつぽつと聴こえるでしょうか。
驟雨はざあざあと響いているでしょうか。
霧雨はしとしとと鳴っているでしょうか。

言語という文化を可能な限り絞り出し、最後に残った出涸らしにこそ自己は眠っているのではないでしょうか。
そしてその自己を知ること。他を知り己を知る、というのとは、ややニュアンスが異なりますが、そうやって暗がりに潜む自分の深層意識を手探りで感じるまたとない機会でございます。

日本語には多くオノマトペがございますが、とはいえこれは雨音に限った話ではなく。
あまり犬は「わんわん」とは鳴きませんし、咀嚼音が「もぐもぐ」と聞こえることもございません。心臓が「ドキッ」と鳴ればそれは恋ではなく不整脈ですし、「シーン」と静かな環境は、果たしてそれでいいのかと首をかしげたくなります。
日常のいたるところに楽しみは潜んでおりますね。

というわけで、今年の夏はこっそりと書庫を抜け出して、日本中のありとあらゆる川の上流より桃を流し、実際に「どんぶらこ」と聴こえるかをセルフ自由研究として掲げてございます。(久保と小瀧を連れて行きます。無理矢理にでも)
お嬢様、お坊っちゃま。川に洗濯に行く際は何卒耳をお澄ましくださいませ。

ああそれから。 7月より、当家のギフトショップにて、くるみを使用いたしましたリーフパイをご用意してございます。
さくさくのリーフパイにカリッとくるみがアクセント。 ……オノマトペが適切かどうかは、ぜひお試しいただければ幸いでございます。

 

 

 

こちら、北海道は大雪山国立公園より。ぼろぼろの旧士幌線はしんしんとしたノスタルジックの中にひっそり潜むオカルティズムが心地良うございます。
もふもふの蝦夷栗鼠もリーフパイを食べに来てくれると嬉しゅうございますね。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

先日、春の陽気に誘われて、手のひらサイズの図鑑を片手にお散歩に出かけた時のことでございます。
桜の花弁はとうに散り、街はすっかり緑に覆われており夏と遜色ない青青とした風景が広がっておりました。

しかし、春の風物詩と言えば当然桜だけではございません。足元を見やればカラフルな花々が小さくも勇ましく咲き誇っております。
春を彩る彼らに目を向けないのはなんとも勿体無い。
図鑑に曰く、ハルジオン、ヘビイチゴ、スミレ、カキドオシ、シャクナゲ、ライラック……。
上に下に東に西に、360度五感全てで四季を味わうのが日本人としての粋でございましょう。

さてそれでは、私も日本人として春を味わい尽くそうではございませんか。ちょうど足元に白いふわふわの綿毛がぽつねんと佇んでおります。根本からぶちっともぎ取り、口元に運んでフゥッと息を吹きかけました。すると、かわいらしいたんぽぽの綿毛がふわふわりと風に乗って飛び立ちます。
ゆったりと空を揺蕩うかよわいもこもこ。
メルヘンなその様子に、なんだかうっとりしてしまいます。

アラ、わたくし、きっと、とってもロマンチックだわ。

ねぇたんぽぽちゃん、あなたの名前はなんていうのかしら。

セイヨウタンポポ

外来種でございました。
環境省指定要注意外来生物であり、侵略的外来種ワースト100にも名を連ねるインベーダーとのこと。
漢字がいっぱいで強そう。メルヘンの対偶にございます。
それにしても荒木田、不覚でございます。まさか外来種の繁茂に手を貸していたとは。知らぬ間に犯罪の片棒を担がされておりました。しかしもう、こうなっては後の祭り。風に乗った種子たちは元気いっぱいにその勢力図を拡大していくことでしょう。うまく奴らの手のひらの上で転がされたようで悔しゅうございます。

さて。
セイヨウタンポポをはじめとして、日本のみならず世界中で外来種というのは問題になっているようで。その地にはもともといなかった種の、すなわち、外来の生物。元来その地に住んでいた生物の生息領域を脅かしたり、よろしくない波及効果が多々あるとのこと。
そんな外来種問題に踏み入ってみると、動植物に罪はない。真に悪いのは人間なのだ、などという言説をちらほら見かけます。

人類の目覚ましい科学の発展により、世界は小さくなりました。海を越えることも空を飛ぶことも難しくない。然らば、そんな人類の文明に肖って勢力拡大する輩というのは、しかし、諸悪の根源は人類である、という理屈でございます。

こう言った理屈に、なるほど確かにと納得する一方、それは言い過ぎなんじゃないかと思う私もおります。
だって、文明の発展がなければ私は現在の幸福を享受できていないわけでございますから。そして、それらは自然選択の結果生まれたものでございます。ホモ・サピエンスが進化の過程で”自然に”生み出してきた文明という技術を、地球が生まれて以来数十億年紡がれてきた”自然”という枠組みから外すのはいささか傲慢ではございませんか。

イデオロギーの問題でございますから、どっちが正解とかはないのでしょうが。
どっちつかずもまた良しにございます。のらりくらりと不安定でまろやかに、荒木田は素敵な世界を願うばかりではございます。

 

 

 

 

 

というわけで。
きつね。北の国より。
荒木田でございました。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

春を彩った桜の花びらも散り、街も山もお屋敷も、新緑初夏の様相を呈してございます。

今年は冬が長く続いたこともあり、例年に比べ桜の開花が遅うございました。春の風物詩をご覧にはなりましたか?

私はちらと散歩で目にやった程度でございますが、やはり桜は好い。寒く寂しい冬の終わりと、暖かく優しい春の到来を告げるやわらかいピンク色は、どうにも理屈ではなく、自身のDNAに刻まれた日本人の心を直接鷲掴みにするような魅力を、感じてございます。

ご存知でしょうか、奈良県吉野山は旧くから桜の景勝地として有名でございます。私、実は吉野山を春に訪れたことがございませんで。

昨今オーバーツーリズムが問題視される日本の諸観光地ではございますが、弘法大師も楽しんだであろう桜を、一度でいいから拝んでみたいと存じております。

ただ、桜の開花という一年に一度しかなく、ややタイミングが読みづらいイベントで、ピンポイントで遠出をする、というのはなかなか難しく。折角訪れても桜がまだ咲いていなかったり、メイストームで散り散りになってしまったりすれば、がっくりと肩を落とす他ありません。

マアそういった失敗も旅行の醍醐味ではございますが。

一口に桜といっても、様々な姿を見せてくれるのも彼等のいじらしいところでございます。満開の花々は当然のこと、もう今にも咲くぞという蕾の可愛らしさには思わず頬が緩みます。五分咲きの桜の木を見て満開の姿を想像しながら日本酒を啜るのも風情がございますし、緑とピンクがマーブルに見える葉桜の醜さも、そんな自分を受け入れよという傲慢さが見えるようで、私は嫌いではございません。

さて。

桜の美しさを始め、そういった極めて日本人らしい美徳や情念について、これを本質論的に本居宣長が提唱した概念として『物のあはれ』というものがございます。

物を見て、物に触れ、物を感じる。そうして呼び起こされる様々な情感。それこそが『物のあはれ』を知ることであり、それこそが一切の事物の正しい認識方法なのだといいます。

私はシャレオツなヤングですので、そんな概念をナウい言葉で言えば「エモい」がそれにあたる言葉ではないかと。エモーショナルこそが、実在である。やや曲解ですが、お許しください。

得てして、テクストは単純化が愛されるものですから。

何とは無しに、お写真を。

島根県は美保関にて。

 

 

 

 

 

散りゆく桜のようなエモーショナルを少しでも感じていただければ幸いでございます。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

楽しみにしていたお出かけの朝に雨が降っている。交差点がすべて赤信号で足止めされてしまった。お腹を空かせて足を運んだレストランが臨時休業。そんな一日を過ごした帰路は決まってこう思います。
「今日は運が悪かったな」と。
そして些か自分の人生を振り返ってみれば、概ね「運が悪い」という結論に集約されることが多い気がいたします。これは自身のネガティヴ思考に拠るものなのでしょうか。

しかし、もう少し日常というものを因数分解し、広く解釈してみれば、こんな考え方もできたりします。
「雨の日に外に出たのに雷に当たらなかった」「交差点で車に轢かれることがなかった」「レストランが潰れていなかった」。私が当たり前だと思っていた日常はその実、無数のポジティヴに支えられていたことに気づきます。

半分の水で満たされたグラスを見たときに「水が”半分”しか”入っていない」と捉えるのか「半分”も”入っている」と捉えるのか。ポジティヴとネガティヴ、世界の見え方と考え方のいろはを問うこの命題はきっと誰しもが耳にしたことがあるとは存じますが「グラスに入った水を直感的にイメージできること」「事象を視覚によって認識できていること」「そもそもこのような思考実験ができるほど、日々の生活にゆとりがあること」といった「無意識のポジティヴ」を俎上に載せられていないのです。

さて。
だからといって私は「もっとポジティヴに生きようではありませんか!」などと宣う気はございません。
なぜならば、逆もしかりですから。
「いつものように海岸を歩いていたのに龍涎香を拾えなかった」「道端にツチノコがいなかった」「空に彩雲が見られなかった」といった無意識のネガティヴも、当然に日常に遍在しております。

私が思うのは非常にシンプルでありきたりな結論でございます。
「当たり前の日常はその実、極めて奇跡的なバランスで成り立っている、何よりも尊いものなのだ」と。

 

 

 

 

 

数年前に訪れた石川県能登のお写真。ただ景色がきれいだな、と思って撮った当たり前の日常の風景でございます。
当たり前でなくなってから尊ぶのではなく。当たり前だからこそ尊ぶ。
そうすればきっと、世界は想像以上に美しゅうございます。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

タイムカプセルを掘り起こした経験はございますか?

数年、十数年、或いは数十年前の自分からの手紙。古びた缶には思い出の品や、思い出せない品の数々との対面は、殆どタイムトラベルのようなものでしょう。

タイムマシーンなど無くとも、過去に行けるのだ。……なんて宣言したらホーキング博士に怒られそうなのでやめておきます。

さて。

驫木駅という駅をご存知でございますか?

鉄道旅が好きな人間であれば、恐らく一度は名前を聞いたことがある、或いは写真を見たことがあるであろう、
青森県と秋田県を海沿いに結ぶローカル路線である五能線の一駅、それが驫木駅でございます。

小さな無人駅に過ぎないこの駅を有名にしているのはそのロケーションです。周りには建物の影も殆どなく、海沿いにぽつんと、木造の駅舎が佇んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お写真をご覧いただけば、きっとその魅力が伝わることでしょう。

私が初めて訪れたのはまだ酒の味も知らぬ時分でございました。ポスターの中でしか見たことのない風景に酔いしれ、燥いでいたら草むらのどこかに四角い端末を落とし、数時間に一本しか来ない電車に間に合わないという始末。苦々しい失敗の記憶にございます。

それから、この駅には数度と訪れましたが、その度に思うのは「ここは変わらないな」ということ。

私がどれだけ変わろうとも。世界がどれだけ変わろうとも。それでも、この場所はこのままなのです。

全く、ノスタルジィは、善き哉。

この場所こそが、私なりのタイムカプセルでございます。過去に触れ、過去の自分を垣間見て、未来の自分に託す場所。変わる自分、変わる世界。変わらない自分、変わらない世界。

タイムカプセルの内容や隠し場所など、あまり人に話すものでは御座いませんが、ご安心くださいませ。日本中を旅して回っておった私でございます、秘められたカプセルは十や二十ではございません。死ぬ前には全て巡ろうと思っておりますが、どうも私の死出の旅路は長旅になりそうですね。

お嬢様も、タイムカプセルの隠し場所にはくれぐれもご注意を。過去の自分と未来の自分の対話でございますから、くれぐれも隠し場所は慎重に。第三者の立ち入りは野暮でございます。

あぁそれと、忘れてしまった時のために、信頼のおける人間に場所を控えてもらう、というのも肝要かと。

……そういえば以前、椎名執事から「本邸のお庭の隅には大切なものが埋まっているから決して立ち入らぬように」と聞いたことがございますね。

……まさか。早速スコップを用意して、そうだ、小瀧にも声を掛けましょう。

いざゆかん。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

少し、幼き日の思い出話をば。

幼稚園でのお絵描き。食事をする自分を白画用紙いっぱいに表現しようと、手に持ったコップに入った水を描こうとした時のことでございます。クレヨンの箱に手を伸ばし、おや、と気が付きました。

それらしい”みずいろ”という名の色は、どこからどう見ても自分の知っているはずの水の色ではないのです。とはいえ、どこを見渡しても”とうめい”なんて色のクレヨンはなく、だからと言って何も塗られていない状態のコップは何も入っていないようにしか見えません。

ですので仕方なく”みずいろ”のクレヨンを手に取りコップを塗り潰してみれば、中々どうしてしっくりくる。

“5さいのぼく”が手に持った”みずいろ”のナニかは、決して青色五号の希釈液などではなく、紛れもない水なのです。

これは妥協なのか、それとも学習なのか。ともかくクレヨンに曰く”みずいろ”は、私を含める多くの人間にとって水の色であることは紛れもない事実であろうかと存じます。

それでは反対に、水の色は何色でしょう?

透明も然り、みずいろも然り。或いは少し濁っていても透明であれば水の色と言えるかもしれない。

触れ合ってきた水との関わり方や価値観、考え方、或いは人生すらも表層するやもしれません。

このそれぞれの知覚や感覚に類する概念を、哲学や脳科学でクオリアと言います。これを突き詰めれば、より世界の解像度が上がり、いずれ、自己とはなんなのかという、人間誰しもが直面するの本質的な疑問立ち向かえるかもしれません。少し、心が躍ります。

 

 

 

 

さて。こちらは、私が以前北海道の礼文島にて撮影したお写真でございます。

加工無しにしては、なかなか美しい海のお色でございましょう?

それでは改めて。

「この水は何色に見えますか?」

ぜひ、また。

お会いした時にお聞かせくださいませ。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

初日の出、初雪、初詣。

一年の中で、一番初めに行われるイベントに初〇〇という名前がつけられるのは、日本人にとって極めて身近な文化でございます。

初めて、というのは、きっと神聖なものであり、おめでたいものであり、記念するべきモノだったのでしょう。だからこそ、この文化は現代まで多くの言葉と共に広く残っております。

対して、最後のイベント。

一年の最後に降る雪は、なんと呼ぶべきか。終雪……というのは意味が異なりますし、適切な言葉はあまり馴染みがございません。

自ずから発生の如何を操作できる事象については、〇〇納めという言葉こそございますが、自然現象をはじめとするアンコントロールな物事について、日本語はあまり解決策を持ち合わせておりません。名がある、というのは極めて重要な事柄なのです。だからこそ、
“ラスト〇〇”という半和製英語のようなフレーズを用いて、無理矢理現代の生活に当て嵌めております。

何故か。

簡単なことでございます。それが最後だった、と分かるのは、得てして全てが終わった後ですから。

現在を生きる我々にとって、それが最後であるかどうかは未だ分からず、分かった時には既に過去の事象であり、現在への影響はゼロに近しい。即ち、初と終のギャップは、
未来の不確定性と、過去への無関心に依るものかと存じます。

さて。

或いは、お食い初め、初語など。人生においても、同様に。初めて、というのは祝福され、最後のイベント……これらに、名を冠するものはあまり身近ではございませんね。

当然のこと、死はアンコントロールなものですから。全てが、唐突でございます。

だからこそ、今を必死に生きるのだ。そんな陳腐で、ありきたりなフレーズが凡ゆる国で、凡ゆる言語で尊ばれ、受け継がれ、愛されてきました。

きっと、真理の一つなのでしょう。同じ言葉を、ぜひお送りしたく。

お写真は、山形県出羽三山より、月山の山頂に聳え立ちます月山神社でございます。
出羽三山は、名前の通り三つの山と神社が有名です。
現在の幸せを祈る羽黒山神社。
未来の生まれ変わりを願う湯殿山神社。
そして、月山神社は、過去を祈念する場所にございます。

 

 

 

 

 

折角の年の瀬でございます。過去一年を振り返り、未来一年を期待し、改めて今を見つめ直しましょう。

ちなみに私は、12月31日23時59分59秒に備えて目下ジャンプの練習中でございます。