日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

楽しみにしていたお出かけの朝に雨が降っている。交差点がすべて赤信号で足止めされてしまった。お腹を空かせて足を運んだレストランが臨時休業。そんな一日を過ごした帰路は決まってこう思います。
「今日は運が悪かったな」と。
そして些か自分の人生を振り返ってみれば、概ね「運が悪い」という結論に集約されることが多い気がいたします。これは自身のネガティヴ思考に拠るものなのでしょうか。

しかし、もう少し日常というものを因数分解し、広く解釈してみれば、こんな考え方もできたりします。
「雨の日に外に出たのに雷に当たらなかった」「交差点で車に轢かれることがなかった」「レストランが潰れていなかった」。私が当たり前だと思っていた日常はその実、無数のポジティヴに支えられていたことに気づきます。

半分の水で満たされたグラスを見たときに「水が”半分”しか”入っていない」と捉えるのか「半分”も”入っている」と捉えるのか。ポジティヴとネガティヴ、世界の見え方と考え方のいろはを問うこの命題はきっと誰しもが耳にしたことがあるとは存じますが「グラスに入った水を直感的にイメージできること」「事象を視覚によって認識できていること」「そもそもこのような思考実験ができるほど、日々の生活にゆとりがあること」といった「無意識のポジティヴ」を俎上に載せられていないのです。

さて。
だからといって私は「もっとポジティヴに生きようではありませんか!」などと宣う気はございません。
なぜならば、逆もしかりですから。
「いつものように海岸を歩いていたのに龍涎香を拾えなかった」「道端にツチノコがいなかった」「空に彩雲が見られなかった」といった無意識のネガティヴも、当然に日常に遍在しております。

私が思うのは非常にシンプルでありきたりな結論でございます。
「当たり前の日常はその実、極めて奇跡的なバランスで成り立っている、何よりも尊いものなのだ」と。

 

 

 

 

 

数年前に訪れた石川県能登のお写真。ただ景色がきれいだな、と思って撮った当たり前の日常の風景でございます。
当たり前でなくなってから尊ぶのではなく。当たり前だからこそ尊ぶ。
そうすればきっと、世界は想像以上に美しゅうございます。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

タイムカプセルを掘り起こした経験はございますか?

数年、十数年、或いは数十年前の自分からの手紙。古びた缶には思い出の品や、思い出せない品の数々との対面は、殆どタイムトラベルのようなものでしょう。

タイムマシーンなど無くとも、過去に行けるのだ。……なんて宣言したらホーキング博士に怒られそうなのでやめておきます。

さて。

驫木駅という駅をご存知でございますか?

鉄道旅が好きな人間であれば、恐らく一度は名前を聞いたことがある、或いは写真を見たことがあるであろう、
青森県と秋田県を海沿いに結ぶローカル路線である五能線の一駅、それが驫木駅でございます。

小さな無人駅に過ぎないこの駅を有名にしているのはそのロケーションです。周りには建物の影も殆どなく、海沿いにぽつんと、木造の駅舎が佇んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お写真をご覧いただけば、きっとその魅力が伝わることでしょう。

私が初めて訪れたのはまだ酒の味も知らぬ時分でございました。ポスターの中でしか見たことのない風景に酔いしれ、燥いでいたら草むらのどこかに四角い端末を落とし、数時間に一本しか来ない電車に間に合わないという始末。苦々しい失敗の記憶にございます。

それから、この駅には数度と訪れましたが、その度に思うのは「ここは変わらないな」ということ。

私がどれだけ変わろうとも。世界がどれだけ変わろうとも。それでも、この場所はこのままなのです。

全く、ノスタルジィは、善き哉。

この場所こそが、私なりのタイムカプセルでございます。過去に触れ、過去の自分を垣間見て、未来の自分に託す場所。変わる自分、変わる世界。変わらない自分、変わらない世界。

タイムカプセルの内容や隠し場所など、あまり人に話すものでは御座いませんが、ご安心くださいませ。日本中を旅して回っておった私でございます、秘められたカプセルは十や二十ではございません。死ぬ前には全て巡ろうと思っておりますが、どうも私の死出の旅路は長旅になりそうですね。

お嬢様も、タイムカプセルの隠し場所にはくれぐれもご注意を。過去の自分と未来の自分の対話でございますから、くれぐれも隠し場所は慎重に。第三者の立ち入りは野暮でございます。

あぁそれと、忘れてしまった時のために、信頼のおける人間に場所を控えてもらう、というのも肝要かと。

……そういえば以前、椎名執事から「本邸のお庭の隅には大切なものが埋まっているから決して立ち入らぬように」と聞いたことがございますね。

……まさか。早速スコップを用意して、そうだ、小瀧にも声を掛けましょう。

いざゆかん。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

少し、幼き日の思い出話をば。

幼稚園でのお絵描き。食事をする自分を白画用紙いっぱいに表現しようと、手に持ったコップに入った水を描こうとした時のことでございます。クレヨンの箱に手を伸ばし、おや、と気が付きました。

それらしい”みずいろ”という名の色は、どこからどう見ても自分の知っているはずの水の色ではないのです。とはいえ、どこを見渡しても”とうめい”なんて色のクレヨンはなく、だからと言って何も塗られていない状態のコップは何も入っていないようにしか見えません。

ですので仕方なく”みずいろ”のクレヨンを手に取りコップを塗り潰してみれば、中々どうしてしっくりくる。

“5さいのぼく”が手に持った”みずいろ”のナニかは、決して青色五号の希釈液などではなく、紛れもない水なのです。

これは妥協なのか、それとも学習なのか。ともかくクレヨンに曰く”みずいろ”は、私を含める多くの人間にとって水の色であることは紛れもない事実であろうかと存じます。

それでは反対に、水の色は何色でしょう?

透明も然り、みずいろも然り。或いは少し濁っていても透明であれば水の色と言えるかもしれない。

触れ合ってきた水との関わり方や価値観、考え方、或いは人生すらも表層するやもしれません。

このそれぞれの知覚や感覚に類する概念を、哲学や脳科学でクオリアと言います。これを突き詰めれば、より世界の解像度が上がり、いずれ、自己とはなんなのかという、人間誰しもが直面するの本質的な疑問立ち向かえるかもしれません。少し、心が躍ります。

 

 

 

 

さて。こちらは、私が以前北海道の礼文島にて撮影したお写真でございます。

加工無しにしては、なかなか美しい海のお色でございましょう?

それでは改めて。

「この水は何色に見えますか?」

ぜひ、また。

お会いした時にお聞かせくださいませ。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

初日の出、初雪、初詣。

一年の中で、一番初めに行われるイベントに初〇〇という名前がつけられるのは、日本人にとって極めて身近な文化でございます。

初めて、というのは、きっと神聖なものであり、おめでたいものであり、記念するべきモノだったのでしょう。だからこそ、この文化は現代まで多くの言葉と共に広く残っております。

対して、最後のイベント。

一年の最後に降る雪は、なんと呼ぶべきか。終雪……というのは意味が異なりますし、適切な言葉はあまり馴染みがございません。

自ずから発生の如何を操作できる事象については、〇〇納めという言葉こそございますが、自然現象をはじめとするアンコントロールな物事について、日本語はあまり解決策を持ち合わせておりません。名がある、というのは極めて重要な事柄なのです。だからこそ、
“ラスト〇〇”という半和製英語のようなフレーズを用いて、無理矢理現代の生活に当て嵌めております。

何故か。

簡単なことでございます。それが最後だった、と分かるのは、得てして全てが終わった後ですから。

現在を生きる我々にとって、それが最後であるかどうかは未だ分からず、分かった時には既に過去の事象であり、現在への影響はゼロに近しい。即ち、初と終のギャップは、
未来の不確定性と、過去への無関心に依るものかと存じます。

さて。

或いは、お食い初め、初語など。人生においても、同様に。初めて、というのは祝福され、最後のイベント……これらに、名を冠するものはあまり身近ではございませんね。

当然のこと、死はアンコントロールなものですから。全てが、唐突でございます。

だからこそ、今を必死に生きるのだ。そんな陳腐で、ありきたりなフレーズが凡ゆる国で、凡ゆる言語で尊ばれ、受け継がれ、愛されてきました。

きっと、真理の一つなのでしょう。同じ言葉を、ぜひお送りしたく。

お写真は、山形県出羽三山より、月山の山頂に聳え立ちます月山神社でございます。
出羽三山は、名前の通り三つの山と神社が有名です。
現在の幸せを祈る羽黒山神社。
未来の生まれ変わりを願う湯殿山神社。
そして、月山神社は、過去を祈念する場所にございます。

 

 

 

 

 

折角の年の瀬でございます。過去一年を振り返り、未来一年を期待し、改めて今を見つめ直しましょう。

ちなみに私は、12月31日23時59分59秒に備えて目下ジャンプの練習中でございます。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

そちらは、晴れておりますでしょうか?

お屋敷は、晴。自室で日誌をしたためながら窓から空を見やれば、清々しい晴天が広がってございます。やや寒くはございますが、まさしく絶好のお出かけ日和。ふと郷愁に駆られたるは、山形月山の山頂で見た空だったか、島根は美保関、いや九州最南佐多岬で仰いだ青空か。

以前お話ししたことがございましたでしょうか、私荒木田はこうしてお屋敷にお務めする前、流浪の旅人でございました。日本全国彼方此方、相棒に跨り気の向くままに。山や海、島に半島、街に村。日本列島38万平方キロメートルは、宝箱のように魅力が詰まってございます。

折角ですので、日誌にお写真でも添えましょう。ただ、椿木のように写真が趣味、というわけではございませんから、どうぞクオリティはご容赦くださいませ。

 

 

 

 

さて。

過去の旅路に想いを馳せる時間は思いのほか長かったようで。快晴の空に、ぽつ、ぽつ、或いは、ふわ、ふわと雲がやって参りました。

幼き頃は雲を見れば、綿飴のように甘いのだろうか、だとか、もこもこで柔らかく、くるまれば暖かいのだろうか、などメルヘンチックな想像を走らせておりましたが、今となっては。小学校の理科で習った通り、雲とは、空気中の水分が冷やされることによって表象したただの水蒸気に過ぎません。

時に、思うのです。知識を得ることは必ずしも幸せにつながるのだろうか、と。雲の正体は、甘くてふわふわの綿飴であり、或いは、低反発でもこもこのクッションであるとした方が、よろしいではございませんか。後者の世界の方が、幾分幸福度が高いようにお見受けいたします。

無知、敢えて馬鹿と表現いたしますが、それこそが幸せを手にする条件なのではないか。

馬鹿と煙は高いところが好き、と言います。即ち、高いところが好ければ、馬鹿の証左である、ということ。

それでは峠道をひた走り、高い高い山の上へ、ついに雲の中に入ってみれば。

……うむ、甘くないし、もこもこでもない。

待ち構えていたのは、霧による視界不良にございます。

知識として頭に入っていただけの情報を、五感全てで味わう快感。未知に触れるのと同じくらい、既知を噛み締めるのは魅力的であり、その為に人は旅に出るのです……あくまで私の持論でございますが。

既知に触れる未知の旅。お嬢様も、宜しければ、是非。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます。荒木田でございます。

気がつけばもう10月も半ば、2023年も終わりが見えてございます。
少し前まで、猛暑日ばかりの茹だるような暑さが続いていたかと思えば、ここ最近は20度を下回り肌寒く感じる日が多くなって参りました。季節の移ろいはもう少々丁寧であって欲しいと願うばかりでございます。『秋』はもっと自己主張できないものでしょうか。物置の奥からコートを引っ張り出せば、昨冬のあの凛々しい姿はどこへやら。哀愁漂う皺まみれの姿に、申し訳なく独り頭をやや、やや垂れました。

さて。それでは秋を通り越した冬の到来が残念なのかと問われれば、殊の外。全くそんなことはございません。
厳かで雅趣に富む冬の夜、何はともなく筆が進み、誰に見せるわけもない詩作が励みます。手前味噌ですが中々どうして、粋でございましょう?
そうだ、俳句など。全くもって、よろしいではございませんか。らしく、冬の季語と共に。冬でイメージする私の好きなものを挙げ連ねていきましょう。

炬燵でぬくぬくと、自堕落に。温かいお汁粉でも啜るのは至福のひと時でございます。或いは、折角ですから着物でも着て街に繰り出しましょうか。お気に入りの羽織の上に、足首まで覆い隠さんやという長さの洋ロングコートを掛けるのが荒木田流。喫茶店でホットココアを飲んで暖を取る、というのも悪くはございませんが、ここは一つ、芯から温まりましょう。蕎麦屋の暖簾を潜り、天ぷら蕎麦を一つ、熱燗と共に喫すれば、寒さなど何処へやら。

嗚呼、冬とは、こうでなくては。

……ここまで妄想して、おや、と。ペンを持つ手は止まります。

炬燵にお汁粉、コートに熱燗。私の愛する冬の季語は、得てして、熱いもの/温かいものに大分されます。冬と言えば寒いもののはず、そもそもこの話も、寒さが発端でございます。
この理屈に準ずるならば、冬と言えば温かい/熱いものであり、かき氷や扇風機、川に海、おや夏は寒い/冷たいものである、とこれは些か直感に反するところではございませんか。

然もありなん、それこそが人の営み、”文化”でございます。

簡単に行列式で言い換えれば、”自然”という正方行列[A]から、”快適”というゼロベース=即ち単位行列[E]を成立させるのに必要な逆行列[X]こそが”文化
“である、というのが私の自説でございます。[X]は時に、”発明”であり、”商品”であり、或いは”サービス”と相成ります。

豊かな自然が織りなす四季折々の風景は大変美しゅうございますが、[X]にあたる、それに応ずる人間社会の営みも等しく合理性のもと、美しさを備えております。桜の下で咲き誇るブルーシート、冷やし中華の提供宣言、街に響く芋の調理方法、エトセトラ、エトセトラ。

自然と文化に相対しつつ、小さな秋を探しにお散歩といきましょう。ぜひ、ポケットは空っぽで。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

もう八月も終わり、暑い夏とはおさらばできる……というのは些か前時代的な考え方でございましょうか。
九月の暑さを残暑と表現するのはなかなか粋な日本語ではございますが、勘弁していただきたい……というのが正直な胸の内。

ですが天気予報を見るに私の思いは届かないようでございます。

ただ、それも当然でしょう。暦というものは我々人間が社会を円滑に成り立たせるうえで勝手に創造した境界でございますゆえ。そも、秋だから涼しくなるのではなく、涼しいからこそ秋になったのでございましょう。
元来、自然界には春夏秋冬二十四節気七十二候なぞ存在しないのですから。
どころか、朝・昼・晩といった時の流れや外と内、国境などといった空間の境界。植物と動物といった種の識別、家族・友人などの人間関係に至るまで。世界のすべては、我々人間が創造した境界のうえに成り立っているのです。
それでは、境界がないありのままの世界とはなんぞや、と。
それこそ渾然一体たる世界、仏教哲学でいうところの[空]でございます。

つまるところ、モノとモノの境界を定め、モノをモノたらしめるのは自分自身であり、それ以外の何物でもないのです。
自分という主体があるからこそ、世界が形を成す。即ち、観測者の存在で解が変わる……というのはまるで量子力学の不確定性原理のようでございますね。
リアルを突き詰める先にある物理学とヴァーチャルの中に解を見出す哲学。この二つが根底で繋がっているともすれば、何やら人間の智慧が世界の理に辿り着きそうで胸躍る毎日でございます。

さて。
胸が高鳴ると寝つきが悪くなるのは当然のこと。
安眠のお供に、ノンカフェインのミルクティーでも愉しみましょう。
紅茶にミルクを垂らします。鮮やかな水色がゆっくりと白濁していく様子を見ていると、世界を生み出す神になったような気分がしてなかなか楽しゅうございますね。束の間の、淤能碁呂島への小旅行。

ぼんやりとカップを眺めていると、大八島国が形を成す前に、おぼろげな疑問が頭に浮かびます。

ミルクティーとストレートティーの境界はどこなのだろうか、と。
ワイン樽にスプーン一杯の泥水を入れればそれは泥水である、とは伺いましたが。
カップに垂らした一滴のミルクにはどれほどの力があるものなのやら。

紅茶協会や先輩方にお尋ねすれば直ぐに分かるやもしれません。
ただ、境界というものは自らが定めるものである、と申し上げたばかりではございませんか。
よろしければ、今度また。お嬢様のご意見をお聞かせくださいませ。