日誌

「……そこには、何があるんですか?」

「とくに、なにも。まァ強いて言えば、県境になるんですかね」

「県境、ですか? あぁ、何か特別なモニュメントでもあるんですね」

「いや、まったく。本当に、ただ県境があるだけですよ。目には見えないけど」

「そのためだけに、こんな辺鄙な駅で降りるんですか?」

「ま、そういう人もいるんですよ」

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

一期一会。

この四字熟語を一人旅という言葉から連想する人もきっと多いのではないでしょうか。旅先での、ほんの少しの出会い。日常社会のしがらみから解き放たれ、決して尾を引かない間柄だからこそ取れるコミュニケーションには、確かに非日常の刺激と面白さがございます。

私自身、オートバイでの移動がメインになってしまったり、流行り病もあったりと、今でこそ旅先でのコミュニケーションはめっきりと減ってしまいましたが、それこそまだ学生の時分には、そういった一期一会も旅の醍醐味として楽しんでおりました。

特に、鉄道列車のボックス席なんかは、まさしく一期一会の宝庫でございまして。

 

 

 

 

鈍行電車にゆらり揺られて一人、何とはなしに車窓を眺めていると、どこぞの駅で相席になります。

装いを見ると、どうにも自分と同じような旅人に見える。とは言え少しの気まずさもあり、しばらくはお互い、車窓を眺めたり手元の地図に目を落としたりと適当に時間を使いますが気もそぞろ。そうこうしていると大抵、どちらかが痺れを切らして、こう尋ねるのです。

「目的地はどこですか?」

と。

これが中々に優秀な質問でございまして。まま、だからこそ旅人は、示し合わせたかのようにこの質問を使うのですが。それが観光地であれば、もしかしたらあまり旅や旅行に行く機会が少ない方なのかもしれない。温泉地の名前があがれば、普段の社会生活に気苦労が多い方なのかも。駅名があがれば鉄道好きか、あるいは雑な全国行脚か。特に決めてない、や分からない、といった回答はウム、まさしく流離の旅人でございますね。……何だか格好いいので、私はそう答えるようにしておりましたが。

旅の目的というものには、背景にその人の人となりが、裏付けとなって張り付いているのです。

すなわち、なぜ旅に出るのかという問いは、AIには決して導き出すことのできない、人間らしさの極致と言えるでしょう。

さて。

冒頭の会話は、そんな数ある一期一会の一幕でございます。

確か新潟から山形へ北上するその車内でしたでしょうか。当時の自分より、四つか五つ程年上に見える青年との相席でございましたが、その会話が印象的で、どうにも記憶に残っているのです。

その青年は、境目に足を運ぶのが趣味なのだと、そう仰っておりました。県境に限らず、何かと何かを隔絶する、何らかの境界に行って自分の目でそれを確かめる。その為に旅をしているのだと。

「……ちなみに、理由は聞いても大丈夫ですか?」

「別に大した理由じゃないですよ。県境にしろなんにしろ、境界って地図の上にしかないでしょう。だからそれが、本当の境目はどうなってるのか自分の目で見て、自分なりの真実を見つけたい。それだけですよ」

「……はあ」

「ま、お互い気をつけて旅を楽しみましょう。それじゃあ、また」

私の半分程度の大きさのバックパックを背負ってボックス席を立つ彼の背中を見送りながら、当時の自分は、変わった人がいるもんだなあと失礼な感想を心に秘めておりました。そんなものを見て、何が楽しいのだろうか、と。まぁだからこそ、その会話を今でも覚えているわけですが。

それから数年が経ち。当時よりは多少、酸いも甘いも経験した、ある旅の道中にて。

それはそれは美しい、西の空に広がる夕焼け空を見ました。

 

 

 

 

 

水平線に沈む太陽が染める橙色の輝きのすぐ上にはほんの少しの空色が帯のように揺蕩い、そのさらに上から天上まで、群青の空が広がっている。かと思えば東の空はもう、夜の足音が忍び寄る黒色が、群青の中に存在感を強めてございます。

橙と青と黒。その3色が織りなす美しい黄昏の空。

そんな空を見てふと、思ったのです。

今は、昼と夜、どっちなのだろうか、と。

本来、世界とはグラデーションでございます。海と川、空と大地の境目を。春と夏、昼と夜の境界を、果たして正しく引くことはできますか?

似たような話は以前したことがあるやもしれませんが。言葉という文化を持つ我々人間が勝手にこの世界を区切っているだけで、本当はもっと、微分可能で滑らかな世界が広がっているはずなのです。そしてその全ての事象の間には、どちらにも属すことのない曖昧な世界が隠されているのです。上記の例で言うと、汽水域や黄昏がそれにあたるでしょう。

その曖昧こそが、本来の、原初の、あるがままの世界と言えるでしょう。

しかし、この効率化を求め世界をイチとゼロで表示する合理的な考えこそが重んじられるこの社会において、曖昧とは、時に答えになりえません。

昼か夜かの二者択一を問われた時に、黄昏であると答えれば、正誤判定は問答無用でバツになります。太陽が最後の力強い輝きを放ち、月がそっと顔をのぞかせる橙と群青の空の下で、それでもその空をどちらかに属させなければならないのです。

昼と夜という、二つの時間を隔てる線分を限りなく細くした上で、その一本を他でもない、自身の手で引かなければならない。

昼と夜の間の僅かな黄昏時。それでは今は、昼と形容するべきなのか、夜と銘打つべきなのか。

少し逡巡し、あの青年を思い出しました。あぁ、きっと、こういうことだったのか、と。

彼が語っていた、地図の上で県と県を隔てる県境。縮尺通りに見れば、幅は数百メートルにもわたる境界になってしまいます。

無論、そんなことはございません。現地に赴けば、県境標がその境を示し、或いは〇〇県といった道路標識が見て取れます。

しかし、それらが指し示す境目も、まだ厚みがあるのです。たかだか数センチ、数ミリメートルでございますが。ではその数センチ数ミリの県境の上は、どうなっているんでしょうか?

両県に属すのか、どの県にも属さないのか。いえ、そんな場所があっていいはずがありません。

この日本において、どの県にも属さない土地なんて存在しません。県境の線分とは本来、一厘たりとも厚みがあってはならないのです。

しかしそんなことは物理的に不可能です。真に厚みのない線分は、よしんば作ることができたとしても、不可視のラインになってしまいます。

故に。

そのどちらも許される曖昧な境界線上のミクロな世界において、真に世界を分つのは、その線分を引く自分自身に他ならないのです。線分を定めることに意味があり、その境界には、他の何にも劣らない強烈な自我と個性が顕現します。

そしてそんな自分が定めた境界を見返せば、そんな線分を引く自分自身がどんな人間なのか窺い知ることができるでしょう。

おそらく彼の旅とはきっと、真の意味で自分を探し、そして定める旅だったのではないでしょうか。

自分探しの旅、とは。よく言ったものです。

さて。

5月12日に時任執事とオリジナルカクテル”arlecchino del crepuscolo”をご用意いたします。

まるで黄昏の空を思わせるような橙と群青のカクテルを。

黄昏のカクテル、と銘打ってはございますが、ここは敢えて、二者択一でお伺いいたしましょう。夜のカクテルなのか、昼のカクテルなのか、と。

正解はございませんから、ぜひ自分自身のお答えを頂戴いただければ幸いでございます。

面倒やもしれませんが、何卒。arlecchinoなりの、遊び心でございます故。

日誌

春風駘蕩という言葉が相応しいような、過ごしやすい陽気が日に日に増えてまいりました。

ただでさえ素肌で風を切るバイク乗りにとって、冬というのは地獄の季節でございますから。私の春の到来に対する喜びといったら、冬眠中の森の動物たちやふきのとうに負けずとも劣らじ、でございます。

……あ、因みに夏も地獄でございますよ。オートバイにはエアコンなんてございませんからね、直射日光に灼かれ、夏暑く冬寒い、そんな素敵な乗り物がオートバイでございます。

それではそんな最高の乗り物であるオートバイに欠点はないのか、と言われれば哀しいかな、これらとは別の、一つ大きな欠点を抱えてしまっているのです。

お察しのこととは存じますがそれは当然、危険性、でございます。

ただでさえタイヤが二つしかないオートバイは安定性に欠けますし、自動車と違って搭乗者を護る硬い外骨格もございません。生身で数十キロ、所によっては百キロを超えるほどの速度で走るわけですから、事故にでも遭ってしまえばひとたまりもありません。

一度、人里離れた山奥でひとり、大スリップをしでかしたことがございます。幸い軽傷だったものの、電波も通りませんし人影なんて全くと言っていいほど見られないような場所でございましたから、もし大怪我などしていたらとゾッとしてしまいます。参考までに、このような具合でございましたというお写真でございます。

 

 

 

 

では何故そんな危険を承知でオートバイに乗るのか。荒木田は馬鹿なのか。

それは、他のどの乗り物よりも自由だから、でございます……あ、馬鹿は馬鹿でございますが。

私の旅好きは今に始まったことではございません。初めての一人旅はまだ酒の味も知らぬ時分でございましたから、当然免許なんてあるはずもなく。当時の旅といえば、専ら列車や飛行機といった公共交通機関を使っての旅でございました。鈍行列車に乗ってのろのろと全国各地を巡り、ありとあらゆる神社を参詣したものです。もちろん、それはそれで非常に楽しく、素晴らしい体験・経験でございました。

以前にも申したやもしれませんが、一人旅というのは、自由なのです。肩にのしかかる全てを忘れて何者になっても良い。社会に生きる自らのしがらみから解き放たれる快感は他に変えようがございません。

バイクを走らせている時に感じる開放感は、どこにでも行くことができる、何でもできるのだという全能感にさえ近いような自由なのです。当然、徒歩や自転車よりも行動可能範囲が広く、電車やバスでは届かない場所に行くことができ、自動車よりも取り回しが良い、という現実感を感じるメリットはひとまず置いておいて。

素肌で感じる風と、隔絶されていないからこそ感じるその土地の空気のにおい。海を、山を、街のビル群を、視界に入るそれらの世界があっという間に後ろに飛び去っていく快感。地図にない道なき道を切り開く高揚感。誰に言われるでも命令されるでも引き止められるでもなく、ただ自分が、今したいと思うことをできる喜び。

どんな形であれ、私は一人旅というものを愛しております。しかしやはり、一度このオートバイが与えてくれる自由というものを味わってしまっては、これなしの旅は考えられないな、というのも正直なところで。

とはいえ、危ないことには変わりありませんから。お嬢様、坊っちゃまにはあまりバイクに跨ってほしくない、というのは一つ本音でございますね。どうぞ、もっとご安全な旅をお楽しみくださいませ。

……あ、人力車でもご用意いたしましょうか。私と、あとは久保と冴島あたりに声をかけてご用意いたします。あとは、片倉あたりにも。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

私には一つ、絶対に忘れられない景色、というものがありまして。少し、その話をしたく。

これは私がお屋敷にお仕えするよりも、ちょっぴり前の話でございます。

9月の中頃でしたでしょうか。私は北海道の稚内におりました。

東京は猛暑日という中でも、北海道の最北、それもバイクで風を切って走るなどすれば、涼しいを通り越して最早寒い。限られた装備で出来うる限り最大の防寒対策を施しアクセルを捻ります。

まァバイク旅というのは、春夏秋冬古今東西、いつだって艱難辛苦に見舞われるものでございます。

とはいえ気分は上々。なにせ、憧れの宗谷岬に行けたばかりなのですから。

 

 

 

 

 

日本本土最北に位置する宗谷岬は、全国のライダー・旅好きたちの憧れの地でございます。当然私も、例に漏れず。

果ての果てまで来たぞという達成感、のみならず、貝殻が敷き詰められた「白い道」を始め、蝦夷鹿が群れ、大草原が広がる宗谷のその日本離れした大自然に圧倒され、喜びを噛み締めておりました。

 

 

 

 

 

さて、そんな喜びも束の間に向かったのは、稚内よりフェリーで西に2時間ほどの小島、礼文島でした。

 

 

 

 

 

特に理由があったわけではありません。当然、予定があったわけでも、島に何があるかも知りません。目の前にフェリーがあった、だから乗った。一人旅というのは、そういうものでございます。

 

 

 

 

ゆらり揺られて小一時間。島に着いたらバイクに跨り、船内で調べた観光情報をもとに簡単に島内を散策いたしました。温泉に浸かり、ほっけのちゃんちゃん焼きに舌鼓を打つ(バイクさえなければ、ビールも合わせてもっと楽しめたのですが!)。ウム、出だしは好調。

とはいっても、もう日も傾きかけでしたから、観光も程々にキャンプ場に向かい、テントを貼って夜に備えます。明日になったら、じっくり腰を据えて島内を遊び回ろう。そう決心し、地図を開いた時、一つの思いが頭をよぎりました。

……そうだ、星を見に行こう。

実は私、星空が大好きでして。

よく小さな頃は『銀河鉄道の夜』や『星の王子さま』を読んでその情景に胸を躍らせたものです。限らず、ありとあらゆる創作物で描かれる“満天の星空”に惚れ惚れとしておりました。

しかし、都会の夜は、星空を楽しむには眩しすぎます。ジョバンニとカムパネルラの旅する星々の海は、いつだって私の頭上の寂しい宇宙にはございませんでした。

ですから私は、人里離れた山奥や田舎の明かりが少ない場所に行っては首を上に向け、或いは地面に寝そべり、星を眺めるのです。

ずっと憧れ続けている“満天の星空”を夢見て。

さて、ここは礼文島、ただでさえ周りに光が少ない離島です。きっと、最高の星空が見られるのではないか。

閃きのままに、テントから這い出てバイクを走らせます。目指すは礼文島最北スコトン岬。島の中でも抜きん出て暗く、三方が海に囲まれ遮蔽物がない絶好のロケーション。

走行中のヘルメットから窺い知れる星空にはできる限り目を向けないようにして、岬に到着いたしました。キャンピングチェアを広げ辺りを見回すと、人っこ一人いない岬には当然街灯も民家も無く、先ほどまで煌々と光っていた月も、今や海の下。

場所は完璧、時は来たれり。いざ、顔を挙げてみれば。

広がっていたのは、どうにも筆舌に尽くし難いほどの、文字の通り、絶景でございました。

漆黒とは、過ぎれば青を帯びるのでしょうか。

一雫の藍色を落としたような宇宙の黒は引き込まれそうなほど深く、夜の海の水平線との境界を失くしたそれは恐怖すら覚えるほど、蠱惑的です。

そして、そんな上等で魅力的な宇宙の墨を下品なまでに塗りたくる光の粒の数々が、なんと美しいことか。

真っ黒なテーブルクロスに牛乳を零してしまった、そんな文学的表現をすんなり飲み込めてしまうような、淡く白い光の帯。ミルキーウェイとは、うまいことを言ったものです。

夏の夜空の代名詞たる大三角は明るく光る星々の中でも一際強く輝き、北斗七星とカシオペア座から導き出した北極星は、ひっそりと、しかし力強く指針たる堂々とした煌めきを誇り。そんな真っ白な光たちの中で異様なオレンジの光を放つ蠍座のアンタレスは今にも西の海に沈みそうで、北東の空を見やれば、すばる・プレアデス星団は7個ほどの星粒が寄り添っておりました。

そして、そのもう少し東の空に漂う淡い靄、アンドロメダ銀河とアンドロメダ座。二つのアンドロメダは、夏の終わりを彩り、秋の到来を感じさせる星々。

それはまさしく、あの日あの時、夢見た光景でございました。忘れられない、忘れようにも忘れられない、美しい思い出でございます。

そして一つ、腑に落ちました。

宮沢賢治も、サン=テクジュペリも。こんな美しい星空をきっと見ていたのであれば、成程あれだけ美しい物語を紡げるはずである、と。

 

長々と昔話にお付き合いいただきありがとうございました。

11月25日、時任執事とオリジナルカクテル『アルフェラッツ』をご用意いたします。

透き通った秋の夜空で輝く二等星、アンドロメダ座α星-Alpheratz-の輝きをイメージしたショートカクテルでございます。

アンドロメダ座は、もともと日本を含め東洋では奎宿(とかきぼし)と言われ親しまれてきたそうですが、一説によると、奎宿は文章を司る星なんだとか。

「ほんとうの天上へさえ行ける切符」や「かけがえのない一輪のばら」に想いを馳せるお供としてぴったりな一杯をお作りしてお待ちしてございます。私が見た礼文島の星空を少しでも共有できれば。どうぞお楽しみくださいませ。

余談ですが、私もお屋敷にお仕えして一年半ほどになります。

ついに普段のお給仕以外でティーサロンに立つことになるとは、中々に感無量でございます。最近は新しい使用人たちも増えましたから、そろそろ私も先輩らしいところをお見せしなければなりませんね!

……え?
同期の椿木は一年以上前に初めてのオリジナルカクテルを作ってるし、最近でもエクストラティーをご用意したり、紅茶やワインの資格も取得したりと向上に余念がないのに、荒木田は一年半も何をやっていたんだ、ですって?

…………失敬!ドヒューン

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

「布を織っている間は決して部屋を覗いてはいけません」
そう娘から伝えられていたにも関わらず、お爺さんは好奇心からか、或いは心配からか、つい部屋を覗いてしまいました。
すると、部屋にいたのは自らの羽で機を織る一匹の鶴でした。
正体を見られてしまった鶴は寂しそうに遠くの空に飛んで行きました……。

これは有名なお伽話、鶴の恩返しの一節でございます、きっと一度は耳にしたことがあるでしょう。
日本人にとって非常に慣れ親しんだ物語でございますが、実はこういった物語は、一つの類型として『見るなの禁』と呼称され、世界中に数多存在するのです。
例えば日本神話の伊奘冉然り、西欧ギリシャ神話に至るまで。

物語の登場人物が、なんらかのタブーを与えられ、そのタブーを犯してしまった結果、罰が与えられる……。
まさしく、教訓と呼ぶに相応しい物語でございますね。タブーを創出する側は超常的な存在でございます。神に逆らうなかれ、というやつでしょうか。

折角ですので、もう一つキーワードをば。
人間がタブーを与えられた時。
『見るな、喋るな、開けるな、振り向くな』
得てして、それを犯したくなる心理的欲求が現出するのです。
『見たい、喋りたい、開けたい、振り向きたい』
これを「カリギュラ効果」と言います。

「食べちゃいけないのに、つい食べちゃう」
「聞いちゃいけないのに、耳を澄ましちゃう」
もしそのようなことで自責の念に駆られるような事がございましたら、何卒ご安心ください、人間にとってそれは恥ずべきことではございませんので。
タブーを犯したくなる人間の根源的欲求。
もしかすると、人が抱える原罪の一つやも。なんだかダークで魅力的でございますね。

少し記憶を辿ってみれば。
『混ぜるなキケン』を混ぜたがる幼少時代。
学生机にこっそり「もりそば」と刻み込んだ中学二年生の夏。
20歳になりお酒を飲めるようになった暁には、寝る間を惜しんで政治と宗教と野球の勉強をいたしました。
カリギュラ効果とともに歩んできた私のデモニック半生。うむ、奥ゆかしい。
お屋敷にはタブーが沢山ございます。
……まだまだ楽しめそうでございますね。

さて、11月にはお屋敷にて、私も考案いたしましたケーキ、きのみミルフィーユをご用意してございます。
滑らかなキャラメルクリームとサクサクのパイ生地のコントラスト。上に添えたくるみが可愛らしいアクセントでございます。
とっても美味しゅうございますので、ぜひ食べないでください!!

……あ、嫌ですね。いくらカリギュラ効果と言えど、食べないでほしい、は違います。嘘でございます。嘘。
ぜひ、絶対に、美味しくお召し上がりください。
お召し上がりいただかないと、駄目です。

あ、そう言うとカリギュラ効果的にはお召し上がりいただけなくなるんでしょうか?
やっぱり食べないでください。
あ、いや、やっぱり。

詰みました。

「この先通行止め」と言われると、ついギリギリまで行きたくなってしまいます。
長野県の人里離れた山奥より、愛を込めて。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

いまさらの紹介ですが、私荒木田、旅好きを自称することが多くございます。日本国内に限りですが、47都道府県、全政令指定都市は当然のこと、本土全ての東西南北、全国一宮、人の寄り付かぬ秘境駅などなど。
まあここまでいろんなところに足を運べば、流石に旅が好きだと自負してもばちは当たらないでしょう。

さて。
そんな旅好きには、絶対に付き纏う問題がございます。
それは、旅と旅行の違いでございます。

そう、私は旅好きであって、旅行好きではないのです。
これは別に、旅と言った方が旅行と言うよりもカッコいいから、というわけではございません。あ、いや、ほんのちょっぴりくらいはありますが。
旅と旅行は似て非なるものなのです。
とは言っても、正しい言葉の定義があるわけではないのですが。調べても、それぞれいろんな方の主張があるだけですし。

ですので恐らく、自分なりの定義を定めても許されるのではないのかと。
荒木田なりのその二つの違いを述べてみます。

旅行も旅も、実際に行われることは似通っていますね。
普段とは異なる土地に行って、何かを経験すること。それは旅行にも旅にも当てはまります。
旅行とは、観光であったりを楽しむために普段とは異なる土地に行くこと。すなわち、移動は手段であると言えます。
対して、旅は、どこかへ行くことそのものが目的であり、そこで得られた経験は副次的なものに過ぎないのです。極論、移動さえすれば、旅の目的は果たされます。

だからこそ私は、旅好きを自称するのです。
別にその先に、素敵な景色や愉快な施設、美味しい食べ物がある必要はございません。
ありふれた街並みでも、殺風景な景色でも。ただそれがそこにあるという事実を目の当たりにするのが個人的な旅の醍醐味なのです。

意外とよろしいものでございますよ。 日本地図を見下ろして、ありふれた日常を想起する、というのも。

……とは言いつつも、お写真をお見せするのであれば、素敵な景色を披露したいものでございますね。
場所は……秘密でございます。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

先日、何とはなしにお屋敷のそばを歩き散らしていた時のことでございます。
電信柱に雑に括られていた張り紙がふと目に留まりました。
「木のぬくもり溢れる新築戸建4LDK〇〇万円〜」
立地が分からないからお得感が伝わらないわ、ですとか、令和でもこんな広告が生き残っているなんて寧ろ雅ですわ、なんて感想が頭をよぎる中、最後まで私の心に残った言葉は「木のぬくもり」でございました。

木のぬくもり。よく使われる言葉でございますね。ただ、ハテ、と疑問も浮かびます。
本当にぬくもり、あたたかみがあるのだろうか、と。捻くれ者の荒木田でございますから、木のぬくもりがあふれる4LDKよりも、全室床暖房のぬくもりや最新式のAIエアコンのぬくもりの方がより良いのではないか、と思ってしまったり。

確かに、科学的な事実はございます。木材は熱伝導率がコンクリートや鉄に比べて低いですから、それらと違って触れた時にひんやりとしません。ただそれはあくまで相対的に冷たさを感じないだけであって、ぬくもり、というのとはまた違う気がします。

なんて屁理屈を並べながら色々な様相の新築戸建に思いを馳せているとしかし、言葉の真意に辿り着きました。
打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた部屋。確かにモードでスタイリッシュではございますが、何物も受け付けないような尖った洗練さがございます。格好いいのですが、息が詰まってしまいそうです。
対して、木目調に囲まれたナチュラルなお部屋はといえば。洗練されているわけではないし、スタイリッシュでもございません。しかし、居るだけでほっとするような心地よさがございます。
まるで、ここにいてもいいよ、と伝えてくれているようではございませんか。それはなぜなのでしょう。木目の色味によるものなのか、木材の熱伝導率によるものなのか。

木のぬくもりの本質とはきっと、受容なのではないかと思うのです。何物も拒まないようなおおらかな強さ。数百年生きてきた木材だからこそ出せる強者の余裕、とでも言いましょうか。出来立てほやほやのコンクリートには出せない深みでございます。合理的な機械には決して醸し出すことのできないおおらかさ。
そんな受容こそが、ぬくもりを感じさせるのだと。

それでは私も受け入れられたい、と喜び勇んで、張り紙の下の方に記されていた電話番号にかけてみました。
ぜひ私に内見をさせてはくれませんか。そして大黒柱を抱きしめてそっと一人言ちるのです。
「嗚呼、あたたかい」と。
フフ、背後で青ざめる不動産屋の顔が目に浮かぶようでございます。お次はフローリングに頬擦りでもいたしましょうか。あ、流石にそれはよろしゅうございませんね。木々はきっと受け入れてくれるでしょうが、世間体というものは受け入れてはくれませんので。
……なんて思っていたら、耳元から声が。

「この番号は現在使われておりません」

なるほど。
機械音声というのは、冷たいですね。

何の気なしに、お写真を。
長野県は青鬼集落の青鬼神社境内より。
木々のぬくもりに溢れた静謐が心地良うございます。

日誌

フレフレ日本!
がんばれ日本!

……あ、大変失礼いたしました。
ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。
2024年は四の倍数、すなわちオリンピックの開催年であることは当然ご承知おきの通りかと存じますが、お嬢様・お坊ちゃまにおかれましてはそんなスポーツの祭典はご覧になっておりますか?

馴染みのあるスポーツからそうでないものまで。私も学生の時分にはスポーツに打ち込んでおりましたから、トップアスリートたちがそれぞれの国を代表して日々の鍛錬の成果をぶつけ合う、というこのイベントは見ているだけで血湧き肉躍る思いでございます。
どのスポーツも大変面白いもので、毎日のようにスポーツ観戦に釘付けになった結果私の身に降りかかった災難が。 そう、壊滅的な寝不足でございます。

パリと日本の時差は7時間もございますから、競技によっては、リアルタイム観戦を志せば自然と入眠時間も遅くなってしまうこともしばしば。
日々お屋敷の執務のためにあくせくしている使用人にとって、早起きも大事なお務め。つまり、惰眠を貪ることは許されないのです。結果として、皺寄せは全て睡眠時間に。
最近は専ら、重たい瞼を擦りながら書庫に蔵する書物をお掃除してございます。

そういえば睡眠に際して最近、面白い学説を耳にしました。
それは、生物にとって睡眠こそが自然な状態である、というもの。要するに、ずっと寝てばかりの堕落した生活は、社会からは問題視されこそすれ、生物学的には正しいのだ、とする論文でございます。
私は専門家ではございませんから、どれくらい信憑性のある論文なのかは存じ上げませんが、
ややもすると、胡蝶の夢こそがこの世の理として真実なのやも、と思わせるような魅力あふれる説でございます。

つい書庫でお昼寝してしまっても安心でございますね。私は自然体なのですと声を上げれば許されるやもしれませんので。
ただ、せっかく寝るのでしたら夢でも楽しみたいところ。ハットトリック、キャンキャン、ドラグレスク、ブザービート……。夢の中では体を操るなど思うがままでございます。
それでは、良い夢を。