雨の夜に怪談を

敬愛せしお嬢様へ

まさに季節は夏。叶うものならお出かけをお止めして、涼しいお屋敷でずっとお過ごしいただきたいような、そんな日々が続いております。

とは言えど、時と場合によってはどんなに尊き御方でも、暑さに耐えて過ごさねばならぬ時はあるものでございまして

暑さに抗うためにと、古来から現代に至るまで涙ぐましいほどの努力と文化が生まれてまいりました。

古来のものを見てみますと、行水や川床といった合点のいくものから
キュウリやスイカといった体温を下げる瓜系の品をいただく文化が遥か江戸の世に完成していたり、朝顔を育てて格子に絡ませ、その保湿力を活用したりと
よくその時代にその手法に辿り着いたものだと驚くものも多うございます。

その一方で、合点がいくようでゆかぬのが「怪談」でございましょうか。

これも間違いなく真夏の風物詩ではございます。
怖い話をしてゾーッとして暑さを忘れるという論理ではございますが
それを風情と称するべきか、心理的錯覚にまで手を伸ばしたその万策尽くす姿勢に感動するべきなのか悩むところでございます。

と思いましたら、調べてみたところ
恐怖を感じると、鼓動の活発化に対する血管の収縮などにより
事実、体感的に涼しくなるとのことでございました。
まるで科学的根拠のない謎の習慣のような言い方をしてしまい、見識の狭さを恥じるばかりでございます。

‥いや逆に。
科学的実証もできないその時代に、おそらく経験則だけで恐怖を納涼の手段と認識しているの凄うございませんか?

やはり文化とは経験則の積み重ねでございますね。
最初に怪談を始めた方や、最初にナマコを食べてみた方にぜひ会ってみたいものでございます。
友達にはなりたくないですが。

話が逸れました。無茶苦茶逸れました。
荒木田くんがジョークを披露した時の、皆の視線ぐらいそr。

…話を戻しましょう。

というわけで、何と此処からが本題でございます。
怪談がそのように納涼に役立つならば
私もひとつ、ちょっとした怪談を披露しようかと思い立ちました。

ゆえに此処からはいわゆる「怖い話」でございます。
そういったお話が苦手な方、お嫌いな方はこれ以上ご覧になってはいけません。

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これは随分と昔。時任がまだ名もなきバーテンダーであった頃に聞き齧ったお話でございます。

 

舞台はとある街のバー。
機関車のオブジェが置いてある広場に面した、駅からすぐそばの雑居ビルの2階。
大きな窓があり、機関車のオブジェも広場を行き交う人々も見渡せるバーでございます。

店主は職業柄を超えてもなお酒好きが過ぎる方で
カウンターの後ろ、壁一面を埋めるボトル棚には多彩な洋酒がぎっしりと並び
特にボトル棚の最上段には、私財を投じて買い集めた稀少なお酒、珍しいお酒がずらりと並んでおり、店主の自慢話のタネでございました。

そんなバーに集う方々もおのずとお酒好きな方ばかりで
老若男女、社長から学生まで、ただ筋金入りの酒好きという点だけ共通した様々なお客様が、緩くカーブを描く、8席ほどの椅子が並んだ赤茶色のカウンターに毎夜集っておられました。

そんなバーによく通われていたお客様の一人に、シゲさんという方がおられました。
いつもカウンターの一番入り口側、端っこの席が指定席。
シゲさんとだけ呼ばれていて、本名は存じ上げません。
当時おそらく30代後半ほど。小柄で、ちょっと長い髪を後ろでちょんと結んでおられて、お近くで製造業をなさっておられるせいか、作業着のようなお召し物でそのままご来店なさることが多かったような印象です。

自身で製造業を営んでおられる、言わば若社長という立場の方でしたが
周りの方曰く「お人好しすぎるから」あまり羽振りが良いとは言えない方で、いつもウィスキーをロックでゆっくりと、惜しむように舐めるようにお呑みになっていらっしゃいました。

酒量をわきまえず泥酔する、あまり良くない飲み方をする方ではありましたが
このバーの方々は(店主含めて)大体その気配がございましたので特に追い出されることもなく。
むしろ大酒を飲んで泥酔しつつも、常にご自身の懐加減だけはきちんと把握しておられて、当時よくあった「気が付けば手持ちの金額を超えていたのでツケで」なんて事を一度もしたことがない方でした。

まぁ。
手持ちが寂しくて、それでいて大酒飲みで、かといって自身の懐具合は分かっているとなると、なかなか思うように飲めないものでして。
店主が新入荷のお酒や稀少なお酒の自慢話を始めたり、他の常連客が美味そうな酒を満足げに傾けていたりすると、それは羨ましそうな顔でそれを見ていたものでございます。

そうなると酒飲みの妙といったもので。
店主も酒好きが過ぎて採算度外視なところがございましたから「ちょっと味見してみる?」なんて高い洋酒を出してあげたり
他の常連の方も「一杯奢るよ」と同じお酒をシゲさんに注文してあげたりする事が良くございました。

そうすると、それはもう嬉しそうに呑むものですから、
店主や他の常連客も気持ちよく奢ってあげてたものです。
それともうひとつ、気持ちよく奢れる理由がありまして、シゲさんの口癖は「酒で返すよ。」でございました。

シゲさんは羽振りは良くありませんでしたが、ツケで飲んだりましてや他の客からお金を借りたりすることは一切なく、先ほどのようにお酒をご馳走してもらった時も

「必ず返す!今日は手持ちがないけどいつか酒で返すよ。」

そう言って。
そして本当に忘れることなく、後日少しだけお財布に余裕がある日などに
店長に「この前のお礼に飲みなよ」と呑ませてくれたり(そして店長が泥酔して寝たり)、常連の方に再会したときに必ずお礼にと奢り返したり。義理堅く必ず「酒で返す」お人でした。

そんな、どうしようも無い酒好きだけど、良い人が集っていたバーのある夜。

謙虚で義理堅く、酔い潰れる以外は問題を起こしたこともなかったシゲさんが
ただ一度だけ、店長と言い争った事がありました。

ことの発端は、いつものように店長が私財を投じて買った、とても稀少なお酒。
人の人生丸々一回分ぐらいを熟成期間に充てた、とても有名なウィスキーの逸品でした。

小学生や中学生の年齢ぐらいの熟成年数であっても、とても薫り高くコク深く、溶けそうな美味さをもつこのウィスキーが、
人間一人の人生分熟成したらどんな味だと思う?と、店長はいつものように鼻高々に自慢話を酒の肴にしておりました。

しかしまぁ、自慢はするものの
今回はよく酒に私財をはたく店長でも、一生の買い物クラスの段違いの品。
当然値段もあまりにも段違いでして、いつもは店長の自慢話に乗って、大枚叩いて一杯いただく常連たちも、一番羽振りの良い社長衆すら手も出そうにありません。

そして流石に店長も、全血液がアルコールに変わるぐらい酔ったとしても、いつものように「味見してみる?」なんて大振る舞いをできる品でもありませんでした。

誰もが手の届かないダイヤモンドのような酒瓶を見上げながら、身の丈に合ったお酒を舐めていたとき、何故だかシゲさんだけは異常にそのお酒に固執してきたのです。

いつものように店長が「味見してみる?」とグラスを出してくるのを期待していたのか、シゲさんは、じっと安酒のグラスをちびちび舐めながら店長を見つめていました。
だけど
いつものような羨望の視線ではなく、
飢えたような 取り憑かれたような そんな剣呑な視線で。
気まずくなったのか、店長が自慢話を止めて、黙って目の前のグラスを磨き始めたとき
いつもの優しい声とは違う。唸るような、哀願するような、低い声で

「店長。頼むよ。そいつを味見させてくれないか。」
シゲさんがそう言葉を発しました。

途端に不自然なほど、お店の中はしん‥と静まり返りました。
店長が驚き言葉を飲んでしまったせいもあるでしょう。
いつも安酒だけ飲んで、たまに良いお酒を店長や他の常連客に奢ってもらうことの多いシゲさんでしたが
今まで一回たりとも、自分からこのようにねだって来たことはなかったから

そういう驚きもありましたが

バーとしては照明は明るい方のこの店内。それなのにシゲさんの顔は濃く影が掛かり
じっと懇願するように据えられた、その目だけはいやにハッキリと見えて
落ち窪んだ頬、目の下に穿たれた隈、濁って瞳孔の輝きが見えない瞳。
「正直、生きている人間に見えなかった。」とのちに何度も言っていたぐらい酷い表情のシゲさんを

店長も他の常連客たちも異様なものとして感じ取っていたようでした。

「いや、シゲさん勘弁してよ。流石にこいつはグラスにちょっとでも、俺の給料一月分ぐらいしちゃうんだよ?」
そんな視線から逃れるように、冗談めかして
店長はおどけた口調で断って見せたのですが

「何でだよ!頼むよ。いつもちょっとだけ呑ませてくれたじゃ無いか。」
何故だかその夜は、シゲさんは異様に食い下がりました。
「頼むよ。いつものようにちゃんと返すからさ。酒で返すよ。返さなかったことなんか無いだろう?」

「いやシゲさん、困るよ。そんなこと言ったって、シゲさんのお酒じゃ1000杯貰ったって釣り合わない金額になっちゃうよ。」
その様子に戸惑いながら、店主は気まずそうに断りの言葉を重ねますが

「なぁ、誰か頼むよ。コレを一杯奢ってくれないか。なぁ、必ず返すよ。酒は酒で返すから。」

シゲさんはついには、他の常連客一人一人に詰め寄るように、呑ませてくれとせがみ始めたのです。

酒の金額ももちろんですが、そのシゲさんの異様さに
いつもは笑って奢ってくれていた常連客たちも、返事も出来ず目を逸らすことしかできません。

「なぁシゲさん。」
流石に見かねて、店長はカウンターの外側へ周り、
「今日はきっと飲み過ぎか、疲れすぎだよ。
悪いけど、他の客に迷惑かけるなら今日は帰ってくれ。」
おそらく酔い過ぎているであろうシゲさんの体を支えながら、外へと連れ出そうとしますが

「なぁ、頼むよ!
一杯だけ、一口だけで良いから!
いつも呑ませてくれたじゃ無いか、何でだよ!」
シゲさんはついには怒鳴り散らし始め、ついに堪忍袋の尾が切れた店長に外へと追い出されてしまい、
そして渋々に店を立ち去ってしまったのです。

お店の窓から見える、駅前広場をよろめくように歩み去っていくシゲさんの姿が
とても寂しげで悲しげで、
仕方ないとはいえ、店長も常連客たちもその日は気まずい気分のままで、店仕舞いまで話が弾むこともありませんでした。
そして。
それから一週間のあとのこと。

 

それは真夏の雨の日でした。

 

駅前の広場を見渡せる大きな窓には、無数の罅割れのように雨粒が流れ続け
そんな雨粒のカーテンの向こうには、広場を慌てて行き交う人々の姿がまばらに見える程度でした。

カウンターには常連のお方がただ一人。
夏だというのにどこか肌寒く、空調を切っても冷たい風が、どこからともなく背を冷やすような夜。

店主もどうも酒を呑む気にも、騒ぐ気にもなれず。
同じように気怠そうにグラスをあおる常連と向き合って、ただグラスを磨き続けていたそうです。

「シゲさんはあれから来てないのかい?」
何と話に問いかけた常連客の言葉に
「見ないねぇ。気にせず来てくれたら良いんだけど。」
あの日の気まずい思いを甦らせて、少し沈んだ気持ちで店長は応えながら、雨粒の流れる窓を見つめていました。

雨に濡れる窓越しでは外の景色は見え辛く、まるでステンドグラス越しのように
滲んだ景色しか見る事ができませんでした。

「あれ?」
店長に釣られてか、雨の流れる窓を眺めていた常連客が、何を見つけたのか
手を伸ばし、窓の曇りを手で拭って、外を覗きこみました。

「店長、あれシゲさんじゃないかい?」
手招きしながらそう言う常連客の言葉に、店長もカウンターの外へと周り
雨と気温差で曇った窓を少し拭って、外を覗きこんでみました。
「ほら、機関車の端っこのあたり。ちょうど影になっちゃってるとこ。」
雨が降りしきる中、傘を手にせわしく人々が行き交う駅前の広場。
その広場の端の、ちょうど街灯の狭間になる辺りに
なるほど、シゲさんと思しき、小柄な作業着姿の人影が見えました。

この雨の中だというのに傘もささず。
雨宿りをしているようでもなく、ただ雨に打たれながら
ちょうど街灯の影に紛れてよくは見えませんが、こちらを見上げているようにも見えます。

「シゲさんっぽいねぇ。あんなところで何してるんだろう?」
「この前のことが気まずくて、来るか迷ってるんじゃないのかい?」

だとしても
こんな雨の中に傘もささずに何をしているのだろう。

そう訝しむ店長の視界の中で、通りかかった路線バスの灯りが広場前を照らし
街灯の狭間でよく見えなかったシゲさんの姿が照らし出されました。

「シゲさん‥?」

力なく立ち尽くす細い体。痩せこけて窪んだ頬、どす黒い隈を引きずった、そこだけ異様にはっきりと見える見開かれた瞳。

あの夜、店長たちを怯えさせた異様な姿が更に酷くなって、シゲさんはそこに立っていたそうです。

その異様な目が、すぐ近くの広場とはいえじっと自分の方を凝視しているのが怖くて。
店長は窓のそばから離れ、カウンターの内側に戻り、気分を落ち着けようとタバコを一本咥えて火を付けようとしましたが、不思議とライターの火が全く付かなかったそうです。

「間違いなくシゲさんだなぁ。何やってるんだろうね。」
何かいやな空気を振り払うように、店長は常連客へと無理に明るく作った声で話しかけますが。
常連客はというと
凍りついたように手元に取り出した携帯電話を眺めていました。
その表情は引き攣り、汗が額いっぱいに滲み出ていて、明らかに異様な様子でしたが
どうしたのか店長が問う間もなく。常連客は携帯電話を持ち直し、どこかへ電話をかけ、そして怒鳴るように話し始めました。

「ちょっと、俺だけど。何だよさっきのメール!冗談にしてもあり得ないだろ!」
「え?何だって?何を言っているんだ?
もう先週の話?え、じゃあ、あの後に‥?」

携帯電話に向かって怒鳴り散らしていたかと思うと、見る見る表情を青褪めさせて
黙ってしまった常連客に、店長が何事かと視線を向けると

「店長。」
電話を切った常連客は、震える声でこう言ったのです。
「シゲさんが亡くなった。
先週。きっと、あの時のすぐ後だ。
経営が行き詰まって為すすべなく、その責任をとって、って、話らしい。」

「何の」
冗談だよと
言おうとして言えず。笑おうとして笑えず。ただ頬を歪めただけの表情で、
だって今そこに居たじゃないか。なんて酷い冗談を言うんだよ。
そう責め立てようとする言葉も口から出ることなく、
店長は雨に曇った窓越しに、もう一度シゲさんの姿を探そうとしました。

「居ない‥。さっきまで確かにあそこに立っていたのに。」
青い顔で窓を覗き込む常連客も、小さな声でそう呟きました。
「本当なのかい‥?」
「信じたくないけどな。小さいけどニュースにもなってたよ。」

「あの酒、最後に呑みたかったのかな。」
ぽつりと言葉を漏らした常連客に、店長が言葉を返そうとした時

カラン。

と、店の入り口に設えているベルが控えめに鳴りました。

凍りついたように
この言葉がこれほど適切なこともそうは無いでしょう。
真夏の夜だと言うのに耐え難いような寒さを感じながら、店長も常連客も、恐怖のあまり視線一つ動かすこともできず、その場で動かず立ち尽くしていました。

びちゃり、びちゃりと
湿ったような小さな足音がして
カウンターの一番端に、誰かが座った気配がします。

誰か
雨の中たまたま来ただけの、他の誰かであるかもしれないと
そんな変な希望を抱いて、店長は視線をカウンターへと向けましたが

落ち窪んだ頬、隈に包まれたギラギラした目。
濡れ鼠の作業着姿のシゲさんが、カウンターに座ってじっとこちらを見ていました。

「シゲさん。」
震える声で店長がそう呼ぶと
「店長。」
シゲさんはゆらりと、件の店長自慢のウィスキーを指差して
「頼むよ。あの酒を呑ませてくれないか。」
小さな小さな声で、そう哀願してきたのです。
「必ず返すからさ。ちゃんと、酒で返すからさ。」
凍ったように体が動かず、恐怖に縛られて口が動かず
どれだけ、同じように身動きもしないシゲさんと見つめ合っていたことでしょうか。

「あああああ!!呑ませてやってくれ!もう嫌だ店長!俺が全部払うから呑ませてやってくれ!」

不意に、限界に達したのか、店の端で固まって震えていた常連客が、泣きながら絶叫してしまい。
その声に弾かれたように、店長の体は動くようになったそうです。

ああ
呑ませてあげりゃよかったな。
そんな辛かったなら酒なんかいくらでも呑ませてやりゃよかった。
あの時飲ませてやってりゃ、シゲさんも亡くなった後まで、こんな思いしなくて済んだだろうに。

不思議と怖さは無くなっていました。
ただ、何年もこのカウンターで一緒に酔っ払ったシゲさんのことを色々と思い出しながら、グラスを拭き上げ、氷を丁寧に転がして馴染ませて。
人生1回分ぐらい熟成した貴重なウィスキーの栓を何の迷いもなく抜き
ほんの30mlで給料1ヶ月分になってしまう貴重な液体を、迷いなく丁寧に、たっぷりと注ぎ入れ

「どうぞ。」

今まできっと、何十回も何百回もそうしてきたように
シゲさんの前に、グラスをそっと差し出しました。

「‥美味いな。」
シゲさんはそれはそれは美味しそうに、何度もグラスを傾けて。
店長は何度もグラスにお酒を継ぎ足してあげていたそうです。

「本当に美味いよ。ありがとう。」

何度も何度もそう呟くシゲさんの声を聞きながら、どれだけの間そうしていたのかも分かりません。
ただ、ふと店長が我に帰った時、
いつのまにか雨に止んだ外からは、駅前広場からの人々のざわめきが聞こえてきて、
カウンターに座っているのは、震えて蹲っている常連客ただ一人。

カウンターの一番端の席。綺麗に空っぽになったグラスだけが、残っていました。

 

「流石にそれっきり、シゲさんの姿は見てないね。
そう何度も何度も化けて出られちゃあ、こっちも商売あがったりだけどさ。」

そう言って、店長はこの話を締め括りました。

お話の中と同じ雨の夜。
本当か作り話かは分かりませんが、夏の暑気払いにと店長が話してくれた物語は
最後に店長ご自慢のウィスキーをいただいて終幕のようです。

「これがお話にあったウィスキーですか。
でも、給料1ヶ月が吹っ飛ぶ値段じゃなかったですか?」
「話を聞いてくれた人には特別割引するよ。
と言いても安くは無いけど、後悔させないぐらい美味いから安心してくれよ。」

店長自慢の秘蔵のウィスキーは、とても香りが深くてまろやかで
おっしゃる通り味わう価値のある良いお酒でした。

「こんな良いお酒を、こんな気前よく振る舞ってもらって大丈夫なんですか?」
「ああ、随分と保ちが良くてね。不思議とぜんぜん減らないんだよ。
まぁ、そんなに頻繁にこの話をしているわけでも無いしね。」

年季の入ったボトルを大切そうに棚の一番上に戻して、店長さんはそう答えてくれました。
棚に戻されたボトルは、ちょうど半分ほどの液体を湛えて、とぷん。と水面を揺らしているのが見えました。

「本当ですね。まだ随分と残ってる。」
「なんか半分から減らない気がしてるよ。何だったらたまに増えてる気がするんだよね。」

そう言ってグラスを片付けている店長さんの笑い声に混じって。

カウンターの一番端あたりからでしょうか
こんな声が聞こえた気がしました。

 

「ちゃんと酒で返すって言っただろ。」