うつろ

隈川でございます。

お嬢様にももしかしたらご経験があるかもしれませんが、人間は心の芯が失われるとこれまで普通にできていたことができなくなってしまいます。

心の芯というのは人によってそれぞれで、夢であったり、物であったり、ペットや植物であったり、誰かとの関係であったり、長く信じてきたクレドであったり。心の根幹の部分でございます。

その芯が揺らぎ、なにかのきっかけで抜けてしまうとそこはうつろとなり、ふとしたとき、呼吸をするようにあらゆる感情を呑み込んでゆきます。

美しい景色から目を背けたくなる。
素晴らしい音楽が響かなくなる。
誰のどのような言葉もふさわしくない、名前のない澱のようなものだけが心に残ります。

これまであたりまえにできていたことが、わからなくなってしまうのです。

このうつろの埋め方に答えはなく、きっとすぐに埋まるものでもありません。
けれど、少しずつ、すこしずつ、傷口が治っていくように痕を残しながらうつろは塞がってゆくのかと存じます。

もしも、お嬢様がいつか心の芯を失い、ご自分のなかのうつろとの向き合い方がわからなくなったとき、これまで通りができなくなってもどうか焦らないでください。強くあろうとなさらないでください。

私も上手にはできておりませんけれど、弱くて不器用なままで、それでも丁寧にゆっくりと向き合うつもりです。

使用人という存在にできることを、もう一度はじめから考えてゆこうと思っております。

隈川

便利

ご機嫌麗しゅう、隈川でございます。
世の中にはどんどん便利なものが増えて、かつて描いた未来というのは地続きでやってくるのだなぁ、と思うこの頃でございます。

伝統を重んじる当屋敷に身を置いておりますと、過度に科学的な物や近代的な物を主人の目に入れないことが暗黙の了解と申しますか、それが当たり前に感じるようになります。

とはいえ、近頃は本場英国の執事たちも最新機器を使いこなし、スケジュール管理や連絡の利便性が向上したことにより以前にも増して行き届いた執務を実現しているそうです。

ここからは私の持論ではございますが、新しい物や流行をハイカラすぎる、雰囲気にそぐわないと突き放すのではなくいかに伝統に組み込んでゆくかが大切なのではないかと最近は思います。

すべてを便利にする必要はございませんが、そこで生まれた余力をもっと有益に主人の為に注げるのであれば、それは素晴らしいことかと存じます。

なにより、重んじるべき伝統の正体を自分の頭で考えることを放棄すれば、そこには化石的な意地しか残りません。

あえて手のかかる手段を選択することにより生まれた想いが、本物のしきたりを作ってゆくのでしょう。

昔、伊織が申しておりました。
「便利すぎてもよくないんだよ」
という言葉は塩梅を自分で考える大切さも込められている気がします。

そういえば、私も屋敷に勤める以前はそれなりに世間一般の若者らしく流行であったり最新技術に興味がありました。

…え??
スマートフォンが普及し始めてから20年経ってる??すでに世間的には伝統的な技術…

さ、左様でございますか。
20年…

隈川

ふつうの木

ご機嫌麗しゅう、隈川でございます。

子どもの頃、桜の枝から花が散り新緑に移り変わることを「ふつうの木になった」と表現しておりました。

成長して、ふつうの木という名前の木も雑草という草もないことを知りました。花が咲いていないときにも桜は桜。

人間だって、そうです。
街ですれ違う人たちも、自分の身近にいる人も、そして自分自身も、同じように名前のない者はいないのです。

たとえうまくいかないときも私は私。
笑顔がお上手に作れない日でも貴方様は貴方様。

咲いているときだけが人生ではございませんね。葉っぱの時期も、枝しかない時期も慌てないで存分に楽しみましょう。

隈川

風船

ご機嫌麗しゅう。
隈川でございます。

幼いころ、飛んでゆく風船が恐ろしゅうございました。

まだ力を込めるのが下手くそな私のちいさな指から逃げるのはさぞ簡単だったのでしょう。ふわふわふわふわ。

別れのあいさつのように細い紐をぶらつかせながら、どこまでもどこまでも高く昇り、空に吸い込まれてちいさくなってゆく赤い風船。

もちろん空の高さも恐ろしかったのですが、もう二度とあの風船と会うことができないんだ、風船は僕のせいでいなくなってしまったんだ、という不可逆性がなによりも怖かったのでしょうね。

しばらくの間、空に向けてゆっくりと落っこちる夢をみてはうなされては目を覚ましておりました。

 

お嬢様はご幼少のころ、恐ろしかったものはございますか。

…え?
お嬢様が危ないことをなさったときに「本気で怒った爺や」が怖かった、ですか。
あぁ、私はそのころの藤堂執事を存じませんが想像すると、ふふ。

なんだか、良うございますね。

隈川

think outside the box

ご機嫌麗しゅう、隈川でございます。

昨年末に調子を崩して以来、これまであまり気が付かなかったことにも目が向くようになりました。

物事を考えるとき、意識を箱の外に置かなくてはいけないという有名なお話がございます。自分ではできているつもりでおりましたが、気がつかないうちに箱に近づきすぎて外壁一枚しか見えていない狭窄的な視野に陥っていたようです。

一歩距離をとっただけで箱の色やサイズ、形がよくわかるようになりました。
そして、そのひとつに固執しなければ箱は他にもたくさんあり、その数だけ考え方があるということにも気がつきました。

自由な発想で生きていきとうございますね。

1年

本年もよろしくお願いいたします。
隈川でございます。

お嬢様、年始はいかがお過ごしでいらっしゃいましたか。

いえ、必ずしもなにをしていたでなくても構わないのですが。

365分の1。他日となんら変わらぬはずなのに、私の場合、年の始めというのはやたらとなにかをしなくてはという気持ちに駆られてしまいまして。

せめてお嬢様にはごゆっくりとお過ごしいただけていたなら嬉しゅうございます。

月並みながら、私はこれからの毎日をなるべく思い残すことのない日々にできるよう努めるつもりでございます。

約1年間、どうぞよろしくお願いいたします。

青い鳥

隈川でございます。

最近ガッシュで絵を描いております。昔、絵を勉強していた頃のことを思い出しながら。

当時の私はとても人間が嫌いで、なるべく他人と関わらずに生きていきたいと思っておりました。

そらに比べますと、ここ数年間の自分はとても能動的に人と関わり、目の届くすべての他人の幸せを願いながら過ごしました。

思えば反動のようなものだったのかもしれません。おかげで、孤独に闇と向き合っていたあの頃も確かに幸せだったのだということに今更気がつきました。

来年はすでにある幸福を見失わぬよう、良い意味で鈍く、静かに、受動的に在ろうと存じます。

隈川