日誌

「……そこには、何があるんですか?」

「とくに、なにも。まァ強いて言えば、県境になるんですかね」

「県境、ですか? あぁ、何か特別なモニュメントでもあるんですね」

「いや、まったく。本当に、ただ県境があるだけですよ。目には見えないけど」

「そのためだけに、こんな辺鄙な駅で降りるんですか?」

「ま、そういう人もいるんですよ」

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

一期一会。

この四字熟語を一人旅という言葉から連想する人もきっと多いのではないでしょうか。旅先での、ほんの少しの出会い。日常社会のしがらみから解き放たれ、決して尾を引かない間柄だからこそ取れるコミュニケーションには、確かに非日常の刺激と面白さがございます。

私自身、オートバイでの移動がメインになってしまったり、流行り病もあったりと、今でこそ旅先でのコミュニケーションはめっきりと減ってしまいましたが、それこそまだ学生の時分には、そういった一期一会も旅の醍醐味として楽しんでおりました。

特に、鉄道列車のボックス席なんかは、まさしく一期一会の宝庫でございまして。

 

 

 

 

鈍行電車にゆらり揺られて一人、何とはなしに車窓を眺めていると、どこぞの駅で相席になります。

装いを見ると、どうにも自分と同じような旅人に見える。とは言え少しの気まずさもあり、しばらくはお互い、車窓を眺めたり手元の地図に目を落としたりと適当に時間を使いますが気もそぞろ。そうこうしていると大抵、どちらかが痺れを切らして、こう尋ねるのです。

「目的地はどこですか?」

と。

これが中々に優秀な質問でございまして。まま、だからこそ旅人は、示し合わせたかのようにこの質問を使うのですが。それが観光地であれば、もしかしたらあまり旅や旅行に行く機会が少ない方なのかもしれない。温泉地の名前があがれば、普段の社会生活に気苦労が多い方なのかも。駅名があがれば鉄道好きか、あるいは雑な全国行脚か。特に決めてない、や分からない、といった回答はウム、まさしく流離の旅人でございますね。……何だか格好いいので、私はそう答えるようにしておりましたが。

旅の目的というものには、背景にその人の人となりが、裏付けとなって張り付いているのです。

すなわち、なぜ旅に出るのかという問いは、AIには決して導き出すことのできない、人間らしさの極致と言えるでしょう。

さて。

冒頭の会話は、そんな数ある一期一会の一幕でございます。

確か新潟から山形へ北上するその車内でしたでしょうか。当時の自分より、四つか五つ程年上に見える青年との相席でございましたが、その会話が印象的で、どうにも記憶に残っているのです。

その青年は、境目に足を運ぶのが趣味なのだと、そう仰っておりました。県境に限らず、何かと何かを隔絶する、何らかの境界に行って自分の目でそれを確かめる。その為に旅をしているのだと。

「……ちなみに、理由は聞いても大丈夫ですか?」

「別に大した理由じゃないですよ。県境にしろなんにしろ、境界って地図の上にしかないでしょう。だからそれが、本当の境目はどうなってるのか自分の目で見て、自分なりの真実を見つけたい。それだけですよ」

「……はあ」

「ま、お互い気をつけて旅を楽しみましょう。それじゃあ、また」

私の半分程度の大きさのバックパックを背負ってボックス席を立つ彼の背中を見送りながら、当時の自分は、変わった人がいるもんだなあと失礼な感想を心に秘めておりました。そんなものを見て、何が楽しいのだろうか、と。まぁだからこそ、その会話を今でも覚えているわけですが。

それから数年が経ち。当時よりは多少、酸いも甘いも経験した、ある旅の道中にて。

それはそれは美しい、西の空に広がる夕焼け空を見ました。

 

 

 

 

 

水平線に沈む太陽が染める橙色の輝きのすぐ上にはほんの少しの空色が帯のように揺蕩い、そのさらに上から天上まで、群青の空が広がっている。かと思えば東の空はもう、夜の足音が忍び寄る黒色が、群青の中に存在感を強めてございます。

橙と青と黒。その3色が織りなす美しい黄昏の空。

そんな空を見てふと、思ったのです。

今は、昼と夜、どっちなのだろうか、と。

本来、世界とはグラデーションでございます。海と川、空と大地の境目を。春と夏、昼と夜の境界を、果たして正しく引くことはできますか?

似たような話は以前したことがあるやもしれませんが。言葉という文化を持つ我々人間が勝手にこの世界を区切っているだけで、本当はもっと、微分可能で滑らかな世界が広がっているはずなのです。そしてその全ての事象の間には、どちらにも属すことのない曖昧な世界が隠されているのです。上記の例で言うと、汽水域や黄昏がそれにあたるでしょう。

その曖昧こそが、本来の、原初の、あるがままの世界と言えるでしょう。

しかし、この効率化を求め世界をイチとゼロで表示する合理的な考えこそが重んじられるこの社会において、曖昧とは、時に答えになりえません。

昼か夜かの二者択一を問われた時に、黄昏であると答えれば、正誤判定は問答無用でバツになります。太陽が最後の力強い輝きを放ち、月がそっと顔をのぞかせる橙と群青の空の下で、それでもその空をどちらかに属させなければならないのです。

昼と夜という、二つの時間を隔てる線分を限りなく細くした上で、その一本を他でもない、自身の手で引かなければならない。

昼と夜の間の僅かな黄昏時。それでは今は、昼と形容するべきなのか、夜と銘打つべきなのか。

少し逡巡し、あの青年を思い出しました。あぁ、きっと、こういうことだったのか、と。

彼が語っていた、地図の上で県と県を隔てる県境。縮尺通りに見れば、幅は数百メートルにもわたる境界になってしまいます。

無論、そんなことはございません。現地に赴けば、県境標がその境を示し、或いは〇〇県といった道路標識が見て取れます。

しかし、それらが指し示す境目も、まだ厚みがあるのです。たかだか数センチ、数ミリメートルでございますが。ではその数センチ数ミリの県境の上は、どうなっているんでしょうか?

両県に属すのか、どの県にも属さないのか。いえ、そんな場所があっていいはずがありません。

この日本において、どの県にも属さない土地なんて存在しません。県境の線分とは本来、一厘たりとも厚みがあってはならないのです。

しかしそんなことは物理的に不可能です。真に厚みのない線分は、よしんば作ることができたとしても、不可視のラインになってしまいます。

故に。

そのどちらも許される曖昧な境界線上のミクロな世界において、真に世界を分つのは、その線分を引く自分自身に他ならないのです。線分を定めることに意味があり、その境界には、他の何にも劣らない強烈な自我と個性が顕現します。

そしてそんな自分が定めた境界を見返せば、そんな線分を引く自分自身がどんな人間なのか窺い知ることができるでしょう。

おそらく彼の旅とはきっと、真の意味で自分を探し、そして定める旅だったのではないでしょうか。

自分探しの旅、とは。よく言ったものです。

さて。

5月12日に時任執事とオリジナルカクテル”arlecchino del crepuscolo”をご用意いたします。

まるで黄昏の空を思わせるような橙と群青のカクテルを。

黄昏のカクテル、と銘打ってはございますが、ここは敢えて、二者択一でお伺いいたしましょう。夜のカクテルなのか、昼のカクテルなのか、と。

正解はございませんから、ぜひ自分自身のお答えを頂戴いただければ幸いでございます。

面倒やもしれませんが、何卒。arlecchinoなりの、遊び心でございます故。