日誌

子供はいつから大人になるのか。

よく聞く問いではございますが、答えは人の数だけあるように思われます。成人年齢という制度がございますから年齢で区切る人もいれば、社会的な責任を持つことだという人もいる。恋に落ちた瞬間に大人になる、という少し詩的な説も耳にいたします。まァ、それを言うなら、「自身の愛の定義を持った時」の方が私好みではございますが——それもまた、一つの例にすぎません。

そもそも「大人」とは何をもってそう呼ばれるのでしょうか。定義のない言葉に価値はありません。知識の多さか、感情の抑制か、あるいは現実との折り合いをつける力か。人間というものは日々成長しながら、どこかで子供の部分を引きずり続けております。或いは、完全な「大人」など存在せず、誰もが境界を行き来しているのかもしれません。

一般社会において、子供はその人格形成の過程で「してはならないこと」を学びます。

人を傷つけること、嘘をつくこと。社会の中で生きる上で、無秩序は許されません。秩序とは、禁止と制限——法律という名のルールや常識という名のモラルの中にあります。

さて。

私にとってオートバイとは「不良の乗り物」という認識でございました。髪を黄金に染め上げ、学校にも行かず、タバコを吹き散らかすならず者の象徴。勤勉で真面目で堅物な荒木田には、まったく縁のないマシンであると思っておりました。

この「縁のない」というところがミソでございまして。知らず知らずのうちに私は、自らの人格形成の中で自然と、オートバイに乗るという行為を秩序の外側に置いてしまっていたのです。

きっかけは、大したことではございませんでした。友人の運転するバイクの背に乗っただけ。

しかしその衝撃は、決して小さなものではなく。私を閉じ込めていた不可視の檻がばらばらと砕け散っていくような感覚でございました。その檻の名前は「常識」だったか「普通」だったか。

一般的な「大人」の定義の一つに、こんなものがあると思います。

『ルールやモラルを理解して、正しく行動できる人間』

これができる人間は、きっと大人でしょう。その証拠に、ランドセルを背負っている小学生が上記の通りに行動したなら、きっと多くの人は「大人っぽいね」と声をかけますから。

では果たして、そのルールやモラルは本当に正しいものなのでしょうか?

(「法律は間違っている!!」などと言いたいわけではございませんからね、念のため。)

『やってはいけないこと』や『やることができないこと』は意外と——やっても問題なかったり、手の届くところにあったりするものです。

そして「なんだ、こんなもんか」と思うのです。最初の、鉛よりも重たい一歩を乗り越えれば、二の足の、なんと軽いことか。

ルールやモラルを理解して、正しく行動できる大人が尊ばれるのは当然として——大人であることが、枷ではなく、視野を広げるステップになれば、それが大変よろしゅうございますね。

私にとって、オートバイに乗るという行為が、そのままブレイクスルーでございました。

相棒に跨るたびに、思うのです。

「ああ、大人になったな!」と。

島根県は西之島にて。Please have a great jouney! な一枚を。

 

 

 

 

 

明日10月27日、中島と共にオリジナルカクテル『Les Deux
Fatals』をご用意いたします。自身が大人であると理解している人間には、自然と色気が出てくるというもの。

大人の余裕に溢れた私と中島の織りなす一杯を、どうぞご賞味くださいまs——あれ、中島くん、なんで逃げるんですか? あれ、なんでみんな笑ってるんですか?