番外編・同族狩りの参/終焉から始まる回想/目隠しのままの社交劇/ハーブとワインと老人と子供/同趣味と知れれば会話は弾む

我が敬愛せしお嬢様へ

気がつけば暦は二月を迎えていたようでございます。
凍てつく様な夜は空気も澄み、星が大変美しいようでございますが、
寒さと乾燥ゆえか、世には良からぬ風邪も流行っているようでございますね。

どうぞ、私の調合する怪しい風邪薬の餌食となりませんように
くれぐれも、お風邪にはご注意くださいませ。
夜には、暖かいベットに早めにお入り頂いて、お身体を冷やさないようお努めくださいね。

爺やにも口煩く言われて居りましょうが、これもお嬢様の輝く笑顔を護るため。
何卒、ご自愛のほどをお願い申し上げます。

それでは、暖かいベットのお供にでもと、寝物語を添付させて頂きます。
お読み頂いているうちに、眠くなってきたらお休みくださいませね。

…そう言えば、かの『ロード・オブ・リング』や『不思議の国のアリス』も、元々は筆者が子供を寝かしつけるための寝物語だったそうでございますね。
実は寝床は、物語の重要な源泉なのかも知れません。

さて、しかしながら私が執務室にこもっている間に月日は過ぎ、だいぶ久々となってしまいました。
寝物語ついでに、先に昨年11月9日の日記をご参照頂いたほうがよろしいかも知れませぬ。

では、駄文でございますが、子守唄代わりにご利用くださいませ。

 
   ◇    ◇    ◇

「…感染源は貴方でしたか。」

鮮烈な朝陽が差し込んでくるテラスの片隅で、窓辺の、厚手のカーテンの傍らに身を寄せて、まばゆい陽光から身を避けながら、私は小さく呟いた。

その呟きに反応して、一対の瞳が私を見返してくる。
大きなテラスの窓を挟み対の位置。
窓の逆側のカーテンの傍らに、私と鏡移しに立ったまま。
澱んだ瞳の奥に浮かんだ、愉悦の微笑が、私の指摘を暗に肯定していた。

私の役目は終わった。

この館に纏わりつく因縁は全て灰燼と化した。
程なくして、因縁のみならず、この館そのものも灰燼と為される事だろう。
服部には、私の脱出を待たずに早急に処分を進めるよう伝えてある。
さほどの間を待たずして、全ては灰へと消える筈だ。

陽光を受け、サロンの中央テーブルで滑らかな輝きを放っている、あの瑪瑙のチェスボードも。
あの地下室の、呪わしい寝床も。
あの応接間の、月下に微笑む美しい似姿も。

「…そして、愚図愚図していれば私自身も…。」

お役目を果たす為とはいえ、少々無理をし過ぎた。
口の中は嫌な味で溢れて上手く言葉も紡げない。
手足はまだ戻りきらず、かろうじて身を支えながら回復を待っている有様。
少しでも負荷を受ければ、文字通り崩れ落ちてしまいそうだ。

対となるカーテンの傍らで嗤う“感染源”は、じっと私を見つめている。
此方としては為すべき事も為した事だし、このまま失礼したいところだ。
だが、澱んだ瞳の中に垣間見える歓喜は、玩具を見つけた子猫のそれに似て、
せっかくの獲物を逃すつもりが無いことを、明確に告げていた。

「…酷い話だ。」

苦笑しながら、崩れかける身体を無理に起こして、“感染源”へと向き直る。
ふと気付けば、サロンの床や換気口などから、早くも白煙が渦巻き始めている。
既に館に火は掛かっているようだ。流石に服部は仕事が速い。
瞬くうちに室内を満たし始める白煙に身を浸しながら、私は“感染源”と向き直り、
その双眸と視線を合わせながら、この役目の経緯を思い返していた。

「…本当に、酷い話だ。」

  ◇   ◇   ◇

―――…事の始まりは、いつもの如く、大旦那様からのお役目だった。

大旦那様からの仰せを受け、旅行者を装い訪問した、この北欧の館。

骨組みは北欧、布地はここ東欧の逸品であろうか。
柔らかな羅紗がそっと包み込んでくれるような、上質のソファの感触も、いまこ
の場所に在っては奇怪な生物の表皮に身を預けているような不快なものとしか感
じられなかった。

此の様な場所に、なぜ私が…と思い返すたびに、大旦那様から告げられた言葉が脳裏に蘇る。
『あれは、おまえの同類だ』と。

昼なお暗き深い森を抜け、漸く訪れた館に待っていたのは、不可思議なる幾つもの謎。
何故か既に知られ、待ち構えられていた私の来訪。
銀の髪と紫色の瞳を持つ人々の絵画。
そしてその中にあった、我が”お嬢様”の面影を強く残す少女の絵画。

更には、案内された応接室へと姿を現した館の主人は、”大旦那様”によく似た白髭の隠者だった。

 ◇  ◇  ◇  ◇  

「遥か東方の貴き家より遣われしお方、ようこそ我が屋敷へ。」

車椅子に身体を沈めた白髭の主人。
その声は深く重く、その響きすら大旦那様のものと錯覚するほど酷似していた。
車椅子の主人の背後には、使用人の老人と女給。
車椅子の傍らには、小姓だろうか?十代半ばほどの少年が控えていた。

「御身の到着を待ち侘びておったよ。さぁ、夜が明けるまで、語り尽くせぬこと限りあるまい…我が、同族よ。」

さて、うかつに言葉は返せない。
私からは、相手の正体や意図どころか、自身の任務の詳細も明確でないというのに、相手はなぜか此方の身元も来訪も知り尽くしている様子のこの状況。
チェスで例えるならば、敵陣の駒配置は全て不可視のままゲームを進められているようなものだ。
せめて、相手の駒位置を少しずつでも探り出さなくては、うかつに盤に手も伸ばせない。

かと言って、来訪しておいて完全無視と言うわけにもいくまい。
主人の挨拶に、微笑で応え。カップを手に取り、返礼のように口の近くまで持ち上げる。
紅茶で喉を潤し、気分を落ち着かせたい欲求はあったが、さすがにこの謎の館で出された紅茶に口を付けのは躊躇いがある。
カップと湯気で僅かなりとも表情を隠し、同時に返礼を返すまでの時間を稼ぎながら、私はただ必死に考え続けていた。

ーーさて、どう出ましょうかね。
ーー迷い込んだ旅行者を装い、様子を見ながら大旦那様が私を遣わした理由を調
査する積もりでしたが。

『応接室へとご案内申し上げます。旦那さまが到着をお待ちでいらっしゃいましたよ?』
『遥か東方の貴き家より遣われしお方、ようこそ我が屋敷へ』

―――身元がバレバレにも程があります。
この様子では「道に迷って難渋していたところでした…。」なんてわけにもいきません。

「…よい香りですね。」
間を取り繕うため、心にもない賛辞を口にし、鼻先でカップをくゆらせる。
水色は、濁りのある暗紅色。そこから漂い出る湯気は、やや刺激の強い薬品めいた香りを纏っていた。
実際の所、これは如何なる茶なのだろうか。

「わしが庭園で育てたハーブじゃ…。」

鴫鳥のような低く歪んだ声。
思考を読まれたかのような、思わぬ返答に驚き、声の主を見返してみる。
声の主は誰かと思えば、鷹揚に頷く主人の背後で、歪な小鬼像のように微動だにせず控えていた老人だった。
最初に私をこの屋敷に迎えてくれた、使用人の老人だ。

眉をしかめて首を傾げて、こちらを睨むように凝視している老人の仕草は、怒りを堪える様子に良く似ていたが…。
「オッダ・ドゥイエという品種での。やや癖はあるが、滋養も薬効もある…。」
幾度も頷きながら、たどたどしい吃声で品種を説明する様子は、気分を害したようには見えなかった。

「…ええと。この地独特の品種なのですか?」
もしかして。単に、誉められて照れてるだけなのだろうか。
予想外な老人の熱意ある説明と、ハーブへの興味につい興が乗り。
私は、決して口を付ける気はなかった紅色の液体を、そっと、口に含んでみた。

うげっ。

……強烈でございました。
まず舌を刺したのは、クィーンローズを凝縮したかのような強烈な酸味。
それに続いたのは、口内の水分を全てもぎとられたかの如き錯覚を覚える、凄まじいタンニンの渋味。
「不味い薬を飲みたくなければ風邪をひかないで下さい」
そのように、つねづね私はお嬢様に申し上げておりますが、
もし、この薬草茶が風邪薬だったならば、私は生涯、風邪など引かぬと心から思える…そんな逸品でございました。

強烈な味にブラックアウトしかけた意識を繋ぎ止めてみると。
テーブル越しに、老人の視線がじっと私を捉え。その反応を待っていた。

「…刺激的な風味ですね。日持ちする薬草でしたら、あとで少し分けて頂けますか?」
とにかく間を持たせようと、心にもない賛辞を送りながら、カップにお代わりを注ごうとする女給を、必死に手で制止する。
すると、老人は気難しそうに、だが嬉しさを隠しきれない様子で幾度も頷き、一番良い出来のものを持たせてくれると約束してくれた。

…まぁ、健康には良さそうですし。帰ったら出雲にでも飲ませてみましょう。

「気に召して頂けたなら結構だが、お茶という時間でもなかったかな?」
はっはっはと愉快そうに、車椅子の主人が笑い声を上げて言う。
その言葉に、車椅子の主人の目を見返してみると、
そこには、私の内心を見透かし楽しんでいるかのような、愉悦を含んだ視線が待っていた。

……。
…この野郎。
…さては、自分とこの茶が不味いのは熟知してやがりますね。

その上で反応を楽しんでいたのだろう、その悪戯っぽい笑みを含んだ目。
半ば反射的に、険悪な一瞥を返してやると、その一睨みすら楽しんでいる様子で、主人は笑いながら告げた。

「気を悪くしてくれるな客人。だが爺の薬草茶は本当に滋養だけは在るからな、
是非に持ち帰って東国の方々にも差し上げて下され。」

…こういう些細な悪戯癖まで、うちの大旦那様に良く似ておられる。
豊かな白眉の下の、色だけが異なる、大旦那様と同じ瞳を眺め、やはり御本人の戯れなのではないかと変装の気配を探ってみるが、そのような痕跡は見当たらない。

とはいうものの。
自分で言うのも何だが、私は自身の観察眼に信用を置いていない。
…そもそも近眼だし。
偽装を見破るなら、この地に同行させた服部の方が優れているのだが、
別行動での情報収集を依頼してしまった以上、今は服部の支援は望めないように思われた。
思われたが。

ーーーひらり。

宵暮れの空を思わせる、青紫の羽根。
執事たる老人の纏うモーニングの背に隠れていたのか、一羽の小さな蝶がふわりと部屋の中を舞っていた。

『私の支援が必要なころですかね?時任執事。』
微弱な羽ばたきがもたらす囁き声は、小さく笑みを含んだ服部のもの。
この四面楚歌の状況に光明をもたらす頼もしい声に、この男を同行させたのは正解だったと、心から安堵しながら私は応えた。
『…素晴らしいタイミングです、服部。早速ですが、調査報告はあとで伺うとして…。』

車椅子の主人は上機嫌な様子で、手を叩いて女給に指示を与えていた。
「さて、お茶と言う時間でもないなら、ぜひ当地自慢のワインをお召し頂こうか。」
言葉と同時に、女給が進み出て紅茶を下げ、私の前にワイングラスを置くと、鮮やかな手つきでワインボトルを取り出し、抜栓を開始する。

『…車椅子の男を御覧なさい、服部。誰かに似てると思いませんか?
本人の変装か別人か、貴方なら見抜けるでしょう。』

シュポンッ!と小気味よい音を立てて、ワインボトルのコルクが抜ける。
コルクの確認を済ませ、主人が軽くテイスティングを行う、一連の作業の後。
女給は恭しくボトルを捧げ持つと、紅く円やかな液体を私のグラスへと注ぎ入れ始めた。

『ふむ。』
服部が頷いたのだろう気配を最後に、沈黙が下り、女給がワインを注ぐ水音だけが響く。
いやに粘性ある紅い液体がグラスを満たす間、青紫の羽根を持つ蝶は、私の周囲を旋回しながら、深慮するような沈黙をしばし保った。

『可愛いですな。』

『…は?』
『西洋人とも東洋人とも付かぬエキゾチックな雰囲気も、幼児のごときイノセントな表情も高得点。
当家の遠矢にはまだ及びませぬが、磨けば更に光る可愛さかと存じます。』
蝶はヒラヒラと舞い、館の主人の傍らに控えていた少年の周囲を旋回しながら、
熱を込めて語りはじめた。
『ミドルティーンは過ぎていると思われますが、それでいてこの無垢な面立ちは小悪魔性も有りそうですが其処が良い。』
『…日本に帰れ。というか土に還れ。この変態忍者。』
前言撤回。同行させる人材を明らかに誤りました。
というか、次回からフットマン採用の際、性格テストを更に厳しく行うよう上申致しましょう。

『色素の薄い肌の中に在って、そればかりは黒曜石の様に輝く瞳もまた逸品。』
なおも熱っぽく語りながら、ヒラヒラと少年の周りを飛び回る蝶。
少年の瞳が、その軌跡を追い掛けたかと思うと、星を掴もうとする子供のように
その手が伸ばされ…。
『あ。』
ーーぱんっ!
思いの外機敏な動作で伸びた少年の手は、見事に舞い飛ぶ蝶を捕らえ。
そして。

握り潰していた。

『…は、服部っ…?』
思わず立ち上がりかけた私。
その出鼻を挫くかのように、白く華奢な少年の手が、私の眼前へと突き出される。
いつの間にか、私の目の前へと駆け寄っていた少年は、子猫が捕らえた獲物を誇るかのように、満面の笑顔を私に向けていた。

「捕れたよ?」

服部の言ではないが、この世のものとは思えぬ無垢な笑顔。
その笑顔のまま、少年が誇らしげに広げた掌の上には、摘み取った青薔薇にも似たモノが張り付いていた。

わなわなと、形を失った青紫の羽が揺れて、何かを訴える。
服部の蟲術が、蝶の羽のわななきに言葉を載せ、何かを伝えようとしているのか。
とっさに私は耳を澄ませて、その幽かな羽音を聞き逃すまいとする。
『少年の華奢な掌で握り潰される。これもまた、新たな快感の地平かも知れませぬ。』
潰れた羽根が残した僅かなわななきで、そんな無駄なメッセージを残して、服部の声は途絶えた。

……服部。何しに出てきたんだお前は。

そんな私の絶句をどう取ったのか、館の主人は微苦笑を浮かべて少年を窘めた。
「お客人の前で失礼な真似はやめなさい。」

「…お孫さんですか?」
無表情な女給が、少年の手を白布で拭っているのを横目に、私は何とも無く尋ねる。
そう問うては見たが、少年の外観は顔立ちにおいても人種においても、血族であるようには見えなかった。
何より、瞳の色は紫ではなかったし、髪の色も銀ではなかった。

「いいや、事情があっての預かり者ですよ、お客人。
ささ、ひとつ当地のワインでもお召し頂き、気分を直されよ。」

主人の言葉と共に、卓に控える女給がそっとワイングラスを私の手元に寄せて、軽く一礼する。
…先刻から、まるで主人の身体の一部のように、彼の意をよく汲んで動く女給たちだ。
使用人としては敬意を表したいが、正直、操り人形めいていて気味が悪い。

「こちらの地元の品種なのですか?」
色々と引っ掛かるものはあったが、ここは気に留めるだけにして調査を進めなければならない。
それに、純粋にこの異国お膝元のワインに対する興味もあり、私はゆっくりとグラスを揺らして、その色合いや粘性を眺めてみた。

非常に粘性は高い。グラスの内側を流れる雫が流れ落ちる事無く、静止しているようにすら見える。
色合いは濁った赤。透明度が低く、光に透かせば翳るほどだ。
「さて、メルローの変種とも聞いておりますが、製法が独特なようでしてな。」
同じ液体を満たしたグラスを揺らして、香りを楽しむ様子を見せながら、主人は答えた。

グラスをゆっくりと揺らしながら、私もワインの香りを探ってみる。
メルロー種なら正直好みだ。この様子なら熟したプラムのような香りだろうか……。
…。
…。
……生臭い。
色といい、粘度と言い、香りといい…。
「お隣のハンガリーには、『雄牛の血』なるワインが高名ですが、それと似たイメージでございますね。」

グラスを口から離し、そう問いかける。
それを聞き、既に一口目を含んでいた車椅子の主人は、悪戯っぽく笑い、応えた。
女給に手を拭いて貰ってから、主人の下に駆け戻った少年が、その傍らに身を寄せてワイングラスを興味深そうに眺めている。
「似たイメージ…とは湾曲な言い回しですな、客人。」
笑んだ拍子に、白髭に包まれた口元がやや露になり、紅いワインに濡れた犬歯が垣間見える。
「もう少し若く純粋な味わいがお好みでしたら、取って置きのボトルをご用意致しましょうかな?」

言葉と共に、主人は車椅子の傍らに座した少年の髪を撫ぜ、意味ありげな笑いを浮かべて私を観察していた。

「…いえ、此方で十分すぎるぐらい美味ですよ。」
失礼のないように、少しだけグラスに口をつけてから、私はそう固辞をする。
ワインの酸味と苦味が私には強すぎたのか、ひどく口内が疼き、喉の渇きが一層強く感じられた。

「それは良かった。」
車椅子の主人は軽く手を打って、ようやく我が意を得たとばかりに微笑を浮かべる。
「ワインをお召しになりながら、ゆっくりと楽しむのがお好きと伺っておりましたのでな。」

「楽しむ?」
「ええ。貴方も、大層お好きと伺っておりますよ。」
言葉の意味を察しきれぬ私に構う事無く、車椅子の主人が、笑みを浮かべて頷く傍らから。
銀盆に載せられて、私の眼前に運ばれてきた物があった。

それは、一揃いのチェスボードだった。

表面に不規則なマーブル模様を描くそれは、恐らく瑪瑙製のものだろう。
冷たい鉱石でありながら、暖かみとも表現しえる滑らかさを持つ、最高級のチェスボード。
思わず言葉を呑み、時間を忘れて見入ってしまうほどの美しさを備えた、一揃えの芸術品だった。

「…これは…驚きました。」

だが、何より私が目を奪われたのは、そのチェスの駒一つ一つの磨き込まれた様だった。
瑪瑙の駒は、造られたその時点では、ただの冷たい石の駒でしかない。
人の手によって触れられ、使用され、そして柔らかな布で日々丁寧に磨かれ続けてこそ、この暖かく柔らかな滑らかさが生み出されるものだ。

チェスを趣味と称し、長年にわたり様々な方と対決してきた中で、幾度かはこの様な瑪瑙のチェスボードも目にしたことはあった。
だが。
どれだけの時間と手間を投じられて、そしてどれだけの愛着を込められ続ければ、今ね私の目を奪っているこの駒たちほど艶を、備えうるのだろうか。
一つ一つの駒が命を宿しているかのような、柔らかな艶を宿す見事なチェスセットに目を奪われ、私はしばし、お役目のことすら忘れその駒たちに目を奪われていた。

どれだけ呆然としていたのだろうか。
「今宵、貴方をお招きしたのは、チェスの勝負をお受け頂くため。」
車椅子の主人のその声に、私はふと現実に引き戻される。
「私もこれが好きでしてな。お恥ずかしくも、余暇の全てを注いでいるといっても過言ではない。
しかしながら、中々この様な地に住んでいては、見合った相手とも巡り会えませんでな。
余暇を持て余していたところ、御家の時任氏がかなりチェスを使われると仄聞しまして、ご当主様に無理を申し上げてでもお招きした次第です。
いや、お忙しい中でしょうに我儘を申し上げてお恥ずかしい。笑ってやってくだされ。」

…ああ。
思わず、肩の力がガクンと抜けたのは否めなかった。
『あれは、おまえの同類だ』
大旦那様のあの言葉は、そういう意味であられたのだろうか。

私が無類のチェス好きであることは否まない。
そして、自惚れであろうとも、それなりの打ち手を自負していることも。

「…私如きが馳せ参ずるのに、お手間をお掛けしたようで、申し訳ございません。
ご期待とご尽力に、お応えできる試合が出来ると良いのですが。」
「類まれなる奇策の打ち手と伺っております。面白い勝負が出来そうですな。」

一礼し言葉を交わしながらも、ここまでの緊張が我ながら可笑しくなってくる。
大旦那様との外見的な相違は気になるが。
考えてみればこれほど豊かな白髭を蓄えて居られるのだ。
目だけが似ていて、お髭を落とせば全くの別人なのかもしれない。

応接間にあったお嬢様と瓜二つの絵画は、もしかしたら御本人かもしれないではないか。
お話によると、大旦那様と知己であられるようだし。
お庭のように世界を飛び回るお嬢様が、一度は立ち寄られて絵画のモデルになられていても、不思議に思う理由はない。

「私も腕に覚えはありますぞ。あえて傲慢を申させて頂くと、敗北を知らぬ身でしてな。」
愉快そうに笑いながら、車椅子の主人は冗談めいた口調で言う。
「ひとつ是非、全力を以って勝負して頂けませんかな?」

悪戯には悪戯で受けるのも礼節のうちだろう。
緊張から解かれた気の緩みもあったのだろうか、私はそんな考えを持ち、
冗談めいた返事を、車椅子の主人へと返していた。
「…もちろんですよ。
ただ、私の悪癖と致しまして。何も賭けずでは勝負に挑めない性質がございます。」
お土産に、現地のワインをもう数本頂いていって、豪徳寺執事に献上しようかなどと、軽い考えを抱きながら、私は言葉を続けた。
「友人とは、悪ふざけに、グラス一杯の安酒やコインの数枚などを賭けていることが多うございますが…さて、貴方とは何をお賭けするのが相応しいでしょうか?」

興がのった私の提案に、車椅子の老人の表情が大きな笑いに歪む。
無垢な興味を乗せて少年が私たちを見上げ、使用人の老人が大きく眼を見開き、女給は人形のように無感動な目でただ私たちを映していた。
「そうですな。」
車椅子の主人は、満面の微笑を浮かべ。

「賭けて頂くのは誇りの全て。そしてそのお命…と言うことで如何ですかな?」

ごく当然のことの様に、そう告げた。