姫睡蓮

寒暖の起伏激しい日々が続き、幾分梅雨の到来を予感させるような雨も続いております。
急な白雨にお体を冷やされませんよう、十分にお気を付けくださいませ。
伊織でございます。

そろそろ衣替えの時期かと思い立ち、引き出しをひっくり返している最中に突然の雨。
まったく気のおけない毎日でございます。
そんな中、ふと開いた整理箱の中から古い日記帳が出てまいりました。

開いてみれば、まぁなんと懐かしいことでしょうか。
わたくしが件の青いバラを求めてお屋敷を離れる前に認めた日誌ではございませんか。
項を繰っておりますと、思い出深いものにあたりました。
わたくしのもっとも愛する花、睡蓮にまつわる日誌でございます。

古い文章というのは読み返す度に独特の気恥ずかしさを覚えるものでございますが、
ひとつ改めて見返してみることにしてみました――

2007年8月6日
『睡蓮の 白しに焦がる 夜の虫』

神話の時代からなにも変わりなどないのでございます。
それが人の子の定めなのでございましょう。
ほしいものほど手に入らずに、会いたい者ほど遠いのです。
いつまで耐えれば許されるのか、待てど暮らせど音沙汰はなく、
こうしてじっとしている外、手立てはないのでございましょうか。

いじわるな小夜風は昨夜もわたくしを訪ねてはまいりませんでした。
おかげでなんと寝苦しい思いをいたしましたものか。
こうして窓掛けから忍び入る風が貴重に感じてまいりますと、
いよいよ節気も大暑を過ぎて、見舞いのひとつもしたためねばと
筆を執る頃合でございます。

散歩と申せば夜歩きばかり。そんな夜蛾のようなわたくしだって、
炎帝荒ぶる中を出て行くこともございます。
睡蓮に会いに行くのです。
以前お話いたしましたように、睡蓮はわたくしのもっとも愛する
花のひとつでございます。
強いつよい、情けを知らない未の刻の陽を浴びて、それでも灼けない
まぶしいほどの白い肌。力強い緑に守られてひざを合わせている様は、
まるでおおきな玉座にちょこんと座った、ちいさなお姫様のようでは
ございませんか。

睡蓮を愛でるだなんて、似合わぬことはおよしなさいと、
名もない詩人が申しました。
水の妖精、眠りの国の姫君を想うだなんて、自分のなりを確かめて
からお言いなさいと、わたくしのことを笑いました。
太陽に魅入られ、陽のあるうちしか姿を現すことのないその花を、
どうしておまえが愛でようか。
太陽に忌まれた醜い夜蛾が、どうして真昼の空を飛べようか。
たとえ姫にまみえたところで、どうしておまえが愛されようか。
夏の夜なら、空のかなたに大輪の花が咲くではないか。
菊に牡丹に金の椰子。
おまえでも、まばたきさえ惜しんでおれば、光の花を愛でられようが――。

眺めるだけでも咲いて散るまで一刹那。
近くに寄ろうと、共に散るまで一刹那。
なんと意地の悪い物言いでしょうか。

睡蓮の花。
いかに夜蛾のようであっても、今わたくしは人間の格好をしております。
水面をわたり、あなたにくちづけるための羽はございません。
それでも真昼の太陽の下を歩いて会いに行くことができるのです。
睡蓮の花。
どうか沼の端からお見守りすることをお許しください。
そして名もないの詩人のために、叶う想いもあるのだと、そう教えて
やってはくださいませんか。

――やれやれ。
どうやら独特の気恥ずかしさというヤツは、けっして例外をゆるさず
襲ってくるもののようです。
睡蓮の咲く夏場に認めた文面でございますため、季節感の相違はご了承くださいませ。

ですが、丁度雪村執事よりわたくし独自の紅茶を作ってはみないかとお話しをいただいていた矢先のこと。
あらためて睡蓮の花への思いを確かめたところで、この睡蓮を連想させるお茶を作ってみるのもおもしろいかと思い立ちました。
相談を持ちかけましたところ、奇遇なことに、雪村執事もわたくしのお茶としてイメージされていたのが睡蓮の花であったとのこと。
幾度ものミキシングと試飲を重ね、ようやく日の目を見ることとなりました。

引用させていただきました古い日誌のイメージから「姫睡蓮」と名付けさせていただきました。
お屋敷でお召し上がりいただけるのはもちろんのこと、今後わたくしもお務めさせていただきます、お屋敷の離れ「Patisserie Swallowtail Blue Rose」でもご用意させていただく所存でございます。
少しでもご興味をお持ちいただけたなら幸いでございます。