日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

漫画や小説、映画にドラマ。世にあふれるあらゆる物語の中で、主人公に都合のよい出来事が重なり、どんな苦境に陥っても最後には必ず勝利を収める。こうした物語の起伏や出来事は往々にしてございますが、そんな現象を人は「主人公補正」と呼びます。

さて、そんな主人公補正というものについて。

「ご都合主義だ」「リアリティが欠けている」そんな批判的な声はしばしば耳にいたしますね。確かに現実の我々の暮らしにおいては、土壇場で必ず勝利するヒーローなど存在せず、むしろ運命に押し潰されることの方が多いのかもしれません。

しかし、この主人公補正はあって当然のものなのでございます。なぜならば主人公とは、数ある人間の中で「物語を最も面白くするために選ばれた存在」だからでございます。

脇役や通行人にだって、それぞれ人生や物語はあるでしょう。しかしながら、彼らを中心に据えた物語が必ずしも面白いとは限りません。商店街の角のラーメン屋の主人が一日中スープを煮込んでいる物語。名刺入れをオフィスに忘れた不憫な会社員の一日。木のうろでどんぐりを抱えて眠り続ける小リスの話。――それもまた物語には違いありませんが、必ずしも万人を惹きつける力があるわけではございません。

物語の主人公は、読者や観客を最も楽しませ、心を揺さぶり、涙させ、笑わせるために存在します。そのために舞台照明のように「補正」という光が当たるのです。むしろ補正がなければ、物語など始まりもしない。主人公補正とは、物語を駆動させるための最低限の潤滑油なのでございます。

さて、この「主人公補正」という考え方を現実に引き寄せるとどうでしょうか。

巷でよく聞く言葉に、「誰もが自分の人生の主人公なのだから、自分の人生を生きよう」というものがございますね。

なるほど、尤もなお話でございます。確かに人はそれぞれ舞台の中央に立ち、それぞれにしか歩めぬ物語を紡いでいる。誰かにとっては脇役に見えても、自分にとっては掛け替えのない主役である。これは心を軽くし、前へ進むための、なかなかに良い言葉でございます。

しかし、私には一つ物足りなく感じられる点があるのです。「主人公だから自分の人生を生きよう」――それだけでは、どうにも締まりがございません。主人公であることは、ただの前提条件に過ぎません。問題はそこからでございます。

補正とは、主人公の物語を「面白くするため」に働くものだと申しました。であれば我々の人生においても、せっかく自分が主人公である以上、どうすればこの物語が最も面白くなるかを考え、生きるべきではないでしょうか。

失敗も挫折も時には必要でございましょう。喜劇にだって悲劇にだって、ハラハラと手に汗握る展開はつきものです。けれど結局、物語が面白くなったかどうかを決めるのは、その物語の中心に立つ主人公本人なのです。自分自身の選択と覚悟が、物語の補正となり、運命すら動かすのでございます。

お嬢様、坊っちゃま、人生を主人公らしく歩む……というのは当然として。ただ生きるだけでは退屈な物語になってしまいますから、どうせなら、面白い物語を。自らが語り部となり、自らが演出家となり、自分だけの舞台をお作りください。

面白い物語を作るためのおすすめは、普段しないことをすることでございます。普段通らない小路地なんかは特によろしゅうございます。未知の何かに出くわすやもしれませんし、異世界へのポータルがあったりして。何故かニワトリがいたりもします。事実は小説よりも奇なり。

そしてそのお嬢様の作る舞台に、もし私が脇役として登場を許されるのであれば……そうですね、爆発くらいいたしましょうか。脇役の一人が派手に散るのもまた、物語の華でございましょう。