八幡でございます。
改めて考えてみますと、少々不思議な話でございます。
私はジェームズ・ボンドの映画を一本も拝見したことがなく、登場人物についても、物語の流れについても、ほとんど存じ上げておりません。
知っているのは、ただ一つ。
あまりにも有名な、あの台詞だけ。
「ウォッカマティーニを。シェイクで。ステアではなく」
それだけが、長いこと頭の片隅に残っておりました。
どこで耳にしたのかも定かではなく、誰かが真似をして言っていたのかもしれません。
それでも、その言葉には妙な重みがあり、時折ふと思い出しては、「一体どんな気持ちで、この酒を頼んでいるのだろうか」と考えることがございました。
そんなことを思い出したとある夜でございます。
執務を終え、まっすぐ帰るには少々気持ちが騒がしく、かといって誰かと会うほどでもない。
……ええ、こういう時は、静かな場所がよろしいのです。
見慣れたバーの扉を開ける。
店内は落ち着いた照明に包まれ、客も多くはございません。
この空気であれば、背伸びをしても咎められない。
そう感じ、私はカウンターへ向かいました。
腰を下ろし、姿勢を整える。
さて、注文を……と考えた瞬間、心の中で小さな声がいたします。
――本当に、あれを頼むのか。
――映画も観ていないのに。
――台詞だけ知っていて、格好がつくのか。
……もっともでございます。
ですが同時に、こうも思うのです。
――知らないからこそ、確かめてみてもよいのではないか。
――憧れとは、必ずしも理解から始まるものではないのではないか。
そう考え、私は静かに口を開きました。
「マティーニをお願いいたします。
シェイクで。ステアではなく」
……言葉は、思った以上に自然に出てまいりました。
胸の内で、少しだけ安堵。
背伸びではありますが、無理はしていない。
そんな感覚でございます。
シェイカーの音が、店内に響き始めます。
氷がぶつかる乾いた音。
ああ、この音もまた、映画を知らぬ私にとっては、想像の中の世界そのもの。
断片だけを集めた憧れというのも、悪くないものです。
グラスが差し出されました。
手に取ると、しっかりと冷えております。
指先に伝わる冷たさに、自然と意識が集中する。
まずは香り。
そして、一口。
……なるほど。
これは、分かりやすい酒でございます。
甘さに頼らず、迎合もしない。
「これが私だ」と、最初から告げてくる。
正直に申しますと、少し身構えました。
しかし、不快ではございません。
むしろ、こちらの姿勢を正してくるような感覚。
――ああ、なるほど。
――格好をつけるための酒ではないのだな。
そう思いながら、二口目。
……印象が変わります。
先ほどよりも、口当たりが穏やか。
強さは変わらないのに、距離が縮まったように感じられます。
――知らなくても、受け入れてくれる。
――だが、軽く扱うことは許さない。
そんな酒でございます。
周囲の会話が遠のき、意識はグラスに向かう。
今この時間、誰かと言葉を交わす必要はございません。
頭の中では、独り言が静かに続いております。
――映画を観ていなくても、よろしいのか。
――背景を知らずとも、味わう資格はあるのか。
……ええ、今なら分かります。
憧れとは、完全な理解を必要としないもの。
ほんの一言、一場面、それだけで十分な場合もあるのです。
グラスを見つめ、心の中でそっと言葉を置きました。
「物語は存じ上げませんが、この一杯に惹かれた理由は、確かにございました」
飲み終える頃には、気持ちが静かに整っておりました。
高揚ではなく、納得。
背伸びをしたはずなのに、不思議と足元は安定しております。
会計を済ませ、店を出る。
二月の夜風が、思考を現実へ戻します。
映画を観るかどうかは、まだ分かりません。
観てもよいですし、観なくても構わない。
今夜はただ、ひとつの台詞に導かれ、その味を確かめただけ。
それで十分。
静かで、少しだけ誇らしい夜でございました。