夏の終わり、秋の十割。

晩夏から初秋と申しますと新そばの季節でございますので
私も季節の恵みのお裾分けを頂きたく新そばを頂戴して参りました。
新そばはみずみずしく、色合いも清らかで若々しく美しうございます。
お茶で申しますとファーストフラッシュのクオリティシーズンに近うございましょうか。

このたび頂いた新そばのせいろに関してもやはり清らかな肌の色合いに、途切れることなくしっかりと長く均一に細く。
綺麗に四辺揃った繊細な断面、そしてせいろなら由来からしておよそ十割でしょうかしっかりとした強いコシのある食感。
おおよそ艶やかに美しく素晴らしい仕上がりのおそばでございました。

このたびは天丼も共に頂きまして瑞々しく引き締まった身の海老も美味しうございましたが季節野菜だけあってか肉厚のピーマンが私は特に美味しく感じられました。

蛇足ですが先月、俳句の日にてお配りする恒例の句を認めさせていただき大変光栄に存じてございます。
私の本分といたしましては本来なら作品の解説など無粋かと存じる次第ですがこのたびはせっかくなので少々ご紹介させていただければ、と存じます。

鞠咲きて 彼方届けや 遠花火

鞠咲きての上五は
花火の開く前の尺玉を見立てて表した比喩の意味と七月の季語にございます梶鞠を連想させる意図でございます

彼方届けやの中七は
ありきたりで
言うまでもなく遠くの彼方と
ここに居ない彼方を掛けて
詠み手の主観とともに
あわよくば花火を上げた職人の熱量のある気概を感じて彼らの心情の賑やかさとお祭りの喧騒を下五の遠花火の静寂の対比として
読み方によって深みを感じられれば面白いかなと意図いたしました

遠花火の下五は
季語の体言止め
上五の咲きてから植物を連想させ華やかで雅な鞠から煌びやかな花火が開花する情景的な描写と
種の花開く経過する時間の描写に重ねて
七月の季語を暗に込めた鞠と
八月の季語の遠花火にて上五と下五の間にひと夏という時間の経過を思わせる意図がございました。

解説などなくしても一見して伝わるもののある偉大なる歴史的な名句には遠く及ばず

様々考えを巡らせたつもりですが私の思う良い句では到底無いように思われて自分の未熟さを恥じ入るばかりの稚拙な出来でございますが
園田よりも良い句をつくることなど容易だから見ていなさいといったような心意気にてこの夏、俳句を認めていただくきっかけ程度にでもなればそれほど幸せなことはございません。
夏の終わり、芸術の秋。

少し句に寄り添いお過ごしなさるのもよろしうかと存じますがいかがでしょう。
Filed under: 園田 — 22:00

シャーレの中の夢。

近頃ヴィーガンの方の運動が盛んにみられます。
ティーサロンのお食事にもご提供させていただきましたが
ヴィーガンはベジタリアンとは違い動物由来の全般を摂取しない主義の思想でございます

近年はバイオテクノロジーも目覚ましく発展しており、
海水の淡水化やフリーエネルギーに並び継続的に個人的な関心を向けている分野でございます。

人口培養肉といったものがございまして
2013年にはロンドンにて研究費等含めて見積もった3500万円程度の単価にて
培養肉を使ったハンバーガーの試食会が開かれたそうです。
実際に召し上がった方の感想なども記事にまとめられており、つまり
実際3500万円程の金額でご試食なされた方がいらしたということでございますね。
現在はかなり低コストにて製造できるようになりつつあるそうで、
大変興味深い話でございます。

バイオテクノロジー分野ですと
デザイナーベビーについてもよく考えることがございまして
それはアンドロイドとの違いについてでございます。
例えば、遺伝子的に思考の傾向などをデザインしたとして。
社会的奉仕の方向性に思考をデザインされた人間が社会奉仕する様子はプログラミングされたAIを積んだアンドロイドとの違いはどこにあるのか。

アンドロイドの身体が
筋繊維がチューブでなく生身の筋繊維だったとしてボディが金属でなく皮だったとして。
そうした時アンドロイドとヒトは何が違うのか。
その時、電気羊の夢を見るのは誰でしょうか、

かように思考しておりますと
こちらもまた以前お話ししたスープ缶を思わせますが
文明の発達が倫理と哲学の先を行く未来が現実になりつつあるように感じます、いかがでしょうか。
Filed under: 園田 — 22:00

世界は二度踊る。

時折、暇を頂いた日に自室にてお茶を淹れる事がございます。
ティータイムそのものも勿論ですが、透き通るガラス製ティーポットを舞う茶葉様子を愛おしむ事は
より高級な憩いのひとときに存じます。

この度のティータイムのお供は
キームン。
燻製香の香り高く、濃厚な香りに反しすっきりとしたピュアな味わい。
あらゆる苦を知る老人の、宝石のようにきらめく驚くほど素直な瞳、
あるいは朽ちた老木に芽吹く新たな生命を思わせるような。
私の愛してやまない茶葉でございます。

空気の含んだ水を温め空気の抜けぬよう沸騰させず。

ポットに湯を入れ水流によりクルクルと上下に繰り返し回転する様子は妖精の舞踏会を思わせます。
透明の湯の茶色に変わる様子は落日を思わせティーポットの中には
さながら一つの世界が独立しているように思われます。
ひとしきり葉が踊り終え静まり返ったのち。
一つの世界も静寂したように思われます。


しかし実はちがうのです。
少し気長に、
あるいは一枚、茶の葉を捕まえ葉を広げその形を観察するのも良いかもしれません。
あるいは唇に葉を咥え特徴的な葉の触り心地に驚きや発見を見出すのもよろしいでしょう。
そうしているうちに、
一枚、二枚、ふわふわと。
茶葉が浮いてくる様子が見られます。
茶葉に抱かれた小さな気泡が茶葉を上へ持ち上げるのです。
小さなガラスの中に地面が空に登るような神秘の情景がございます。

お茶の味を楽しむ趣旨には逸れると思われる向きもあるやもしれませんが、一つ戯れに。
お時間が許すようなら、ぜひ
おためしくださいませ。
Filed under: 園田 — 22:00

スープ缶の中には

このたびの趣旨は思考実験に近い内容にて少し好みが分かれるかもしれません。
ご関心の向きがございましたら、
ご拝読賜ればと存じます。

かつて、たくさんのスープ缶を描いたとある芸術家がおりました。
以前、季節のデザートとしてお出ししておりましたニコの由来でもございます人物。

アンディーウォーホル。
彼の代表作と申しますと何を置いてもやはりスープ缶のポップアートかと存じます。

近頃、かのアートに思いを馳せる事がままございます。

近代は情報を共有する術が大変豊富に存在する時代でございます。
ウォーホルはこの近代の現象に関しても正確に言及しており。曰く、
「誰もが15分以内に有名になれる、そんな時代が来るだろう。」と。
情報が拡散しやすく
多くの方が共通の情報に触れる現代。
その結果、思考の画一化が生じているように感じます。

ウォーホルがこの絵を描いた意図は近代社会の大量消費に対する風刺とされる意見が見受けられます。
ウォーホル自身毎日このスープ缶を食しており身近なものを描いただけとの見方もありますが。

いずれにせよ十分に思考の余地のあるといった意味合いで大変素晴らしい作品かと存じます。
ところでこのスープ缶、中に何が入っているか、考えたことはおありでしょうか。
スープ缶なのだからスープが入っていて然るべきですが。
仮定として他の物の入っている可能性を思考することも面白味があるかと存じます。

多くの方の想像よりかのアートの実寸は思いのほか大きく感じられるかと存じます。
51cm×41cm、いかがでしょう、
これほどの大きさのスープ缶なら美味しくいただいた後も様々な物を入れられるように思われませんでしょうか。
あるいはそれが缶を開ける前であっても。

シュレディンガーの猫さながらカンバスに描かれたスープ缶を開ける術などないのですから。

水槽の脳という思考実験はご存知でしょうか。
私はかように考えます。
缶の中にはヒトの脳が入っていると。
私には前述した拡散される情報や画一化された思考そのものがさながら整然に並べられたスープ缶のように思われるのです。
整然に並べられたスープ缶の中で思考する脳。
その様子はさながら並び立つビル群が社会を形成するように。
他愛ない戯言でございます。

スープ缶の中に何が入っているか、お考えになるのもいかがでしょう。
Filed under: 園田 — 22:00

ここはサバンナ。

この度は幾分庶民的で他愛ないおはなしかと存じますがこれもひとつ社会勉強の一助として、

お暇な時間のお供にでも、と存じます。

それは
春夏にむけて、お屋敷の衣裳部屋に加わるお品の確認や早くも秋冬の衣装の打ち合わせの為
お屋敷の外へ伺った際の事でございます。
以前に大河内が日誌にて認めておりましたお財布のおはなしに関連いたしますが
電子化の波でしょうか、かような広告を目にいたしました。

とある飲料を電子決済すると価格の三分の一相当にあたるポイントが付与されるといったようなキャンペーンだそうで、
はあ、たしかにお得だなあ、などとぼんやりと存じましたが、よくよく考えてみると

金額にすると50円程。でしょうか

日々重ねると中々の金額になるかも存じませんが普段購入しているものが奇遇にそういったキャンペーンをしているならいざ知らず
言い換えるならいわば自らの選択権を50円と引き換えに放棄することとこれは同義なのでは、と存じました。
見渡してみると案外、巷にはかように類似した件はよく見られるのですが

私はおそろしいことに感じました、
あるいは歳のせいなのかも知れませんが。

いつの時代にもございましたでしょうが
知らず知らずのうちに与えられた選択肢から選択する事しかできないという状況に置かれかねないという事が。でございます。

ここはコンクリートジャングル。
あるいは資本的サバンナ。
これほどまでに発展したように見える文明にも
あるいはだからこそ、
弱肉強食、野生の掟を感じます。

あな恐ろしや。

ところでこの度パンケーキをご用意させていただくおゆるしを頂戴いたしました。
シャンティには練乳をお入れして
軽くメープルをおかけしたパンケーキに添えてございます。
甘さやホイップの重さのバランスを調整いたしまして、パンケーキのしっとりした食感やメープルの香りなど。
自信をもってご提供させていただけるようなご用意に仕上がったことと存じてございます。

気が向かれましたら、是非お召し上がりいただきたく存じます。

俗世の見栄や思惑から解放された自由意思によって得られる穏やかな憩いのひと時を感じていただけるかと存じてございます。
いかがでしょう。
Filed under: 園田 — 22:00

人生とは

端的に申しまして人生とは人として生きることであると私は存じてございます。

ただいま読んでおります本に
万葉集からの引用の一節がございまして
万葉集酒を讃むる歌十三首より曰く、

あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似る

意訳いたしますと
賢ぶって酒を飲まない人は猿にさえ似て醜く見える
と、おおよそこういった意味合いのようでございます。

自分たちのお酒を飲まないことを偉いこと誇るべきことだと信じてお酒を飲む人たちを卑下する方に対して思うこと、と言った具合でしょうか。

(more...)
Filed under: 園田 — 15:00

園田でございます。

先日暇をいただいた日にパスタを茹でました、リングイニでございます。
食感がよろしく私はリングイニが好きです。
パスタは好きでよく茹でます。
過程も、お味も含めた。食事以上にひとつの料理として。
パスタには愛着を覚えます。

ゆっくりとした時間の中。
パスタから立ち昇る湯気はどことなく詩的でございます。
身の締まる寒さの日には尚のこと。

ミートソースでいただきました。
当サロンでもパスタは温めたお皿にて盛り付け、お出ししておりますが。
やはり温かいお食事は食器も温かいと
またより一層おいしくいただけますね。

あつあつの食器で私もこの度はちょうだいすることといたしました。

しみじみと、人生だなあ。と思うお味でございました。
おおよそ、よき人生でございました。

例えば、
時には、お皿に取っ手が付いていてもよいのかな、とそのように存じます、それはフライパンのように。
お箸にしたところですこし普段より長いのも、常日頃のお食事とはまた違った趣きを感じられてよろしいかもしれません。パスタも長いので。
まるで菜箸としてちょうどよい程であっても。

人生ですので。
Filed under: 園田 — 15:15

三年越し

先日、三年ほど前に購入し少しずつ読んでいた文庫本を読み終えました。

その間に幾つか本は読んでおりましたので、
そちらの長くはない一冊だけを読み終えるのに三年を要した訳では流石にないのですが。
それにしたところで随分と、時間が経ったな、というようにも存じます。

、と申しますのも読み終えた際に巻末の1ページ前にレシートが挟まっており、

それは時間の経った今ではまったく(本のどの頁のどの展開より)予想外であったのですが
購入した場所や日付などが記載されておりますので当時の自分の様子が殊の外思い出されまして、
記憶を直接詰め込んだタイムカプセルを開けたような気分でございました。
ちょうどトレーサビリティの重要性を意識しはじめたような時期だったようにも思い出されるので、
今でもお気に入りのお菓子でしたりをいただいた際には名前と製造元のわかるラベルなどを保管するようにはしておりますが、いま一度心がけを新たにするよいきっかけかと存じた次第でございます。

このように自分の人生に自分のわかる足跡のようなものを残しておくとあながち目に触れて思い返す折に発見があるかもしれません。

ちなみに細かいことですがレシートが巻末ではなくその1ページ前に挟まってた理由は

私が新書を購入する際に初版を求める質で初版の文字のある巻末のページは自分にとって意味のあるページなのでインクなどで汚れる危惧のない万全な状態にする意図の為でございましょう。
人間、変わるようでいて変わらないものでございます。
Filed under: 園田 — 16:26

幸福について

ご機嫌麗しうございます
先日、お屋敷の外の知らない町へすこし足をのばし公園で鳥や冬の装いの木でしたりを眺めお散歩しておりましたら

見ず知らずの方に
幸せですか?と、声をかけられ、

ええ、大変、幸福です。
、と笑顔でお答えしたらなぜか不満そうな顔をされました、園田です。

今思うとファウストだったなら魂を取られていたかもしれません。

新たな年を迎えたことと存じますのでより良き年にできるよう幸福について考えてみるのもよろしいかもしれません。

私は自分の思う通りに事が運ぶ事が幸福であると存じております。
単純に思えてこれはそうではないと日々、私は感じております。
自分に対して利益でない結果に辿り着いたとしても自分自身がそれまでの結果と過程を思い描き、望み、辿ったならそれは幸福である、とそのように存じております。

一つの指標として、
功利主義といった思想がございます。
ジェレミベンサムという哲学者が体系化した
行為や制度の望ましさは結果として生じる功利により決定される。
という思想でございます、
最大多数の最大幸福という言葉は有名ですね

その後、
ジョンスチュアートミルがベンサムの下で功利主義を受け継ぎ
功利を追求するにあたって
高級な幸福
つまり功利の量と同時に質についても追求する必要を説きました。
充足した豚よりも不満である人間の方が良い、などとミルは述べているようですが。
個人的に選民的思想に発展しかねない少し極端に寄ったようにそちらに関しては存じますが。

これらは19世紀に提唱された思想ですので随分古めかしいものと言えますし
現に古典功利主義と言われるわけですが
しかしながら
私は概ねこういった立場の思想に賛同し行動原理の参考にしております。

信念に基づいた行動は幸福の道標となるかと存じます。
新年、ですので。

今年の目標などの片手間に考えていただくのもよろしゅうかと。
今年も良き年でありますよう、
また良き年にしていただける一助となるようお仕えさせていただきます。
Filed under: 園田 — 13:30

ディオニュソスの子

先日、
大河内、伊織、両名によるカクテル、ショコラショーの提供をさせていただいたことと存じます。
カクテルの名は接吻、クリムトの画題に材をとった由来でございますね、
クリムトはデカダンスに分類される代表的な画家の一人でございます。
(古代ギリシアのローマのトーガを思わせる装いが印象的な画家でございます)
ビアズリーや、ミュシャもデカダンスでございましょう。
以前大河内も日誌にてディオニュソスについては認めていたかと存じますが

デカダンスは極めてディオニュソス的な芸術かと存じます、
デカダンスとは堕落的、退廃的、背徳的な芸術であり本来否定的な意味合いを以って語られる言葉ですが
個人的な見解としてはデカダンスの本質は赦しであると存じます。
私の愛する名著の一つ坂口安吾の堕落論から申しますと
堕落を止めることに救いはない、聖女も英雄も堕落する、それこそが救いだ。と。
人は堕落によって自身を見出し、許しと救いを見出すことが出来るのだと。
それこそがデカダンスの本分、芸術による讃美であると私は存じます。

当家随一に教養を備えた二人ですから様々に思惑を巡らせたのではと私は存じております。
大河内と伊織、ディオニュソス、接吻、背徳、
私のような一介の使用人には到底真相にたどり着くどころかひとまずの結論さえもまとめることができそうにございません、のでそこは
日誌をご覧いただいた後生ですので、
新しい年も近づいておりますから、ワイン、音楽、絵画、素晴らしきディオニュソスの子たちによる賜り物の数々を側に
ご一緒にお考えいただくのもよろしいかもしれません。
去る年も来る年も良き年にいたしましょう。
Filed under: 園田 — 15:00