番外編・同族狩りの四/千の戦略家/秘密の書斎/塵は塵に、灰は灰に

我が敬愛せしお嬢様。いかがお過ごしでございましょうか。時任でございます。

三寒四温とはよく言ったもので、まるでチェスボードのように暖かい日と肌寒い日が交互に続いておりますね。

気がつけば梅の時期も過ぎ、やがて桜が咲くことでしょう。

桜が咲いたら、皆でお花見など致しましょうか。

美しく散り行く桜を惜しみ、そしてまた来年に咲き誇るだろう花を想う。
そんな桜が私は大好きでございます。

桜の花粉症なので、意味も無くボロボロ泣きながら桜を見ておりますが、そこは気になさらないで下さい。

悲しむことなどございません。
梅も桜も、また来年に、また可憐な花をきっと咲かせてくれるのですから。

それではお嬢様。毎度の事でございますが、此の後は時任の駄文でございます。
睡眠を誘う仕様となっておりますので、ぜひ眠れぬ夜の寝物語として、ご活用くださいませ。

   ◇    ◇     ◇   

棚に並ぶ薬瓶。
地下室独特の黴臭さと薬剤の香りが入り混じった、個人的にはとても馴染み深い臭気の漂う空間。

絶えず響き続ける、くぐもった水音…パイプを通じて薬剤と薬剤が溶け合う泡の音色がゴポゴポゴポ…ゴポゴポゴポ…と薄闇そのものの溜息のように響く部屋。

無数のビーカーと試験管に、これまた無数に貼付けられた、見慣れぬ言語で走り書きされた付箋。
雑然と並べられた、拭っても拭いきれない赤黒い錆の浮かぶメスや医療用ペンチ。

標本槽の中から見つめ返してくる、紫色の眼球。

間違いあるまい。
ここが、彼の揺り篭なのだろう。

「此処には念入りに爆薬を配置してください。痕跡を遺さぬように。」
私に言われるまでも無く、手際よく部屋の四隅に小型の機械箱を配置し、気味悪そうに培養槽を覗き込んでいた服部は、部屋を出ようと踵を返す私に問い掛けた。

「起爆は明朝でよろしいのですね?」
「ええ、日が出ると同時に。」
「なれば。」
どんなに深刻な状況でも、余興を愉しむかのような余裕を浮かべている男が、珍しく僅かに真剣さを交えて言った。
「娯楽は程々になさいませ、時任執事。あまり遊びすぎますと、貴方も諸共に灰になってしまいますよ。」
おどけた仕種で、チェスの駒を進める真似をする服部を振り返り、私は舌が爛れる思いである書物の一典を暗唱して返答の代わりとした。

「”塵は塵に、灰は灰に、土は土に還るべし。”
神の造りたもうし者ならば、塵から出て塵に還ることでしょうが、
私のような者は確かに、灰に戻るのが相応しいやも知れませぬ。」

    ◇     ◇     ◇    

東欧の雨は重い。
東国に降るものと異なることなど無いだろうに、何か雨粒の一つ一つに、静かに堆積し続けてきた何かが凝っているような重さを感じてしまう。
それが、深き深き森の中の、陰気な館から眺める雨ともなれば増してやの事。
世闇の中、窓硝子を叩く雨粒の音の一つ一つが、未練を残した御霊たちの囁き声のように思えてしまう。

館の棟と棟を繋ぐ、瀟洒なる渡り廊下。
定感覚に左右に連なり、視界の彼方まで幾重も続く格子窓は、いつしか降りはじめた雨粒に叩かれて不気味なスタッカートを奏でている。

終わりが無いかのように長いそんな渡り廊下を、私は車椅子の背を押しながら歩いている。
車椅子に座しているのは、この館の主である白髭の老人。我が主である“大旦那様”と寸分違わぬ容姿を持ち、私にチェスの勝負を挑んできた奇妙なる招待者。

奇妙なる茶会も終わり、では早速とチェスボードの前へ進んだ私を、彼は制してこう仰った。
いやいや、まずはお部屋をご用意するゆえ寛がれて、旅の疲れを落とされよ…と。
そう性急に勝負を始めては味気がありますまい。せっかくお招きした強敵。心身ともに漲ったベストな状態でお相手いただこう…と。

わざわざその様な申し出を頂き、断るのも何であるし、そもそもこの異郷の山奥で野宿するわけにも行かぬゆえ、そのお言葉には甘えさせて頂くこととした。

応接間を辞し、かのまずい薬草茶を淹れる老人に客間の一つへと案内して頂き、漸く私は一息つくことが出来た。
確かにこの異郷までの長旅、ましてや人里離れた此の館に来るのに、山を二つ越えてきているのだ。
疲労を癒すべく、客間のチェアに深く身を沈め、服部を呼び寄せて情報の交換をしようかと思ったころだった。

――コンコンっ。と
私が頂いた客間の扉をノックする者がいたのだ。
あの無表情な女給殿がシーツでも届けてくれたのだろうか、まさかあの老人がハーブティーを淹れてきたのではあるまいな。
そんな私の予想を裏切り、扉の向こうで待っていたのは、この館の主人その人であったのだ。
執事の老人も女給も連れず、ただ1人で、車椅子を転がしてやって来たのだ。

何事でございます?と問うた私に、彼は言った。
見せたいものがあるのですよ。…と。
まるで親しい友人に自慢の宝物を見せたがる子供のような笑顔で、そんな囁きをよこす老主人。
抗えるはずも無く、私は老主人の車椅子を押す役目を承りながら、彼の言うがままの方向に車椅子を進め続けた。

そして、雨音がどんどん強くなる中、この私廊下へとさしかかった訳だ。

「…失礼ながら。」
雨音の響く中を、沈黙したまま歩くのは少々気まずさが過ぎる。
これが愛しき恋人との逢瀬や、親しき友人との小宴であれば、時には沈黙もまた宝であっただろう。
だが、会ったばかりの、それも今宵一夜の宿をお借りしている恩人相手の沈黙は余りに気詰まりだったので。
「…失礼ながら、貴方様も、応接室の絵画に描かれていた方々も、紫の瞳に白い肌と言う…此の土地土着の方々とは随分違った特徴をしておられるのですね。」
「おや、そういえば随分と熱心に、応接間の似姿たちを見つめておられたようだ。
特に”月下の少女”がお気に召していたようですが…なんなら一枚差し上げましょうか?」
「いえいえ。確かに見せてみて驚かせたい方は居られますが、恐れ多いことでございます。」

応接間の一角に大事そうに飾られていた、わが敬愛せし”お嬢様”に良く似たお姿の…だが銀の髪と紫の瞳をもつ少女の絵画を思い出しながら、私は申し出を固辞し、そして続ける。

「貴方様や、絵画に描かれておられた…ご家族の方々は、どこか違う土地から参られたのですか?」
沈黙を嫌っての雑談に過ぎなかったが、老主人たちの出自にはやはり興味があり、私が何げなく尋ねると。
「”塵は塵に、灰は灰に、土は土に還るべし。”…そんな言葉がありましたな。」
老主人は、唐突にそんな一文を諳んじて、そして小さく嗤いながら続けた。
「確かに私共は、近隣に住まう者達や、此の国の人間達とは、生まれからして、いささか異なりますな。
そうですな…神によりて塵から造られ、塵に還るべきヒトと。神によりて造られず、ただ灰に還るべき化け物ぐらいは違いますな。」

「…幻想的な表現でございますね。」
キリキリキリ…と胃痛が走るのを耐えて、私はそう返答した。

薄暗さと雨音の囁きのお陰で、永劫に続くのではないかと戦いた渡り廊下もやがては終わった。
老主人が私を誘ったのは、館の別棟にある書斎。
此の土地の家具は優れていることで高名であるが、それを差し引いても風格漂う執務机や本棚の奥へ進むと、書斎の奥には小さな黒樫の扉があり、老主人はその中へ進むようにと私を促した。

主人から、随分と古風なデザインの鍵を手渡され、黒樫の扉に手をかける。
鍵穴に差し込んだ銅の鍵が、シリンダーを回すがちゃっっっと言う音が、静寂に包まれた書斎の中、驚くほど大きく響き渡り…私は開くべきではない扉を開いたかのような違和感を禁じえなかった。

振り向けば、老主人はあの悪戯っぽい笑顔で、私に部屋へ入るようにと促している。
私は覚悟を決めて、黒樫の小さな扉を開き。暗い別室の中へと足を踏み入れた。

暗い。明り取りの窓すら此の部屋には無い。
まず感じたのは乾ききった埃の香り。古い紙の匂い。長年人に触れることの無かった空気だけが持つ、独特の冷たさ。

書庫…だろうか。
通常なら何一つ瞳に届く光もない全き闇であったが
闇に慣れた私の視界には、確かに立ち並ぶ本棚のような物が映っていた。

――ぼっっ。
本棚らしき物に目を凝らしていた私の背後で、老主人がマッチを摩った気配がした。
程なく、角灯の柔らかな光が、部屋を隠していた闇の帳を外し、その姿を露にさせる。

やはり書庫のようであった。
ただ書庫と異なるのは、視界の限りに広がる本棚・本棚・本棚その全てに収まっているのが、重厚な表紙の本ではなく、シンプルに麻紐で括られた無数のファイルであること。

「…これは?」
「まぁ、ご覧下され。」
意味を図りかねて問いかける私に、老主人は笑ってファイルの一冊を手渡してくる。

<1 e4 e5 , 2 Nf3 d6 , 3 d4 Nd7 , 4 Bc4 c6 , 5 Ng5 Nh6 , 6 o-o Be7? , 7 Ne6! Fe >
<7 N:d4 Nc6 , 8 Be3 d6 , 9 o-o Ng4?? , 10 B:g4 B:g4>
パラパラと捲ってみると、そんな味も素っ気もない数字と英字の羅列が、ただ淡々と、淡々と続いていた。
何かの数学式か、さもなくばバグを起こしたプリンタが吐き出したプリントのような、そんな無意味に見える。
<5 cd N:d5 , 6 e4 Nb6 , 7 d5 Ne5?? , 8 N:e5! B:d1 , 9 Bb5+ c6 , 10 cd Ba4 , 11 N:a4 Qc7 , 12 cb+ Kd8>
<1 e4 d6 , 2 d4 Nf6 , 3 Nc3 g6 , 4 f4 Bg7 , 5 Nf3 c5 , 6 Bb5+ Bd7>
だが、私はそのファイルを手に、凍り付いてしまった。
此れ自体は何と言うことはない。何処にでも在るありふれた物だ。だが…。

「時任執事…でしたな?貴方が“奇策の打手”なるプレイヤーであることは良く聞いております。」
私の反応に気を浴したのか、老主人は機嫌よく笑いながら、告げた。
「なら、私は“千の戦略の打手”とでも名乗りましょうかな?」

――私だけが貴方の打ち筋を知っているのは卑怯ですからな。好きなだけご覧になってくだされ。・・・と笑いながら、老主人は書斎を辞していったようだ。

そう、私は『辞していったようだ』と、相手の退出も満足に認識しないぐらい愕然としていたのだ。

「時任執事?」
老主人が書斎を去ってから、どれほどの時が経ったのだろう。
私の足元には、私が機械的に書棚から取り出しては眺め、そして積み上げていったファイルが山のように積もり。
それでも無数に連なる本棚いっぱいに並べられたファイルは、圧倒的な数量で私を見下ろして笑っているかのように見えた。

「時任執事?何なんですかね、此れは?」
服部の声が、私を我に返らせた。
近くにもう家人がいないと見て、姿を現したのだろう。
私が転がしていたファイルの一冊を手に取り、パラパラとめくると、即座にお手上げとばかりに両手を挙げる。
「<2 d4 ed , 3 Q:d4 Nc6 , 4 Qe3 Nf6 , 5 Nc3 Bb4 , 6 Bd2 d6 , 7 Bc4 o-o , 8 o-o-o Re8 ,
9 Qg3 B:c3 , 10 Bc3> ??なんですか此れは、新手のパズルですか?」

「…パズルという表現は、意外と正鵠を得ていますね。」
私はふらつく頭を抑えて、服部の質問に対する答えを口にする。

「…これは『定石』とか『棋譜』と呼ばれるものです。チェスの駒の動かし方を記号で記した物ですよ。」
「ほう。」
さほど興味なさそうに、服部はパラパラとファイルをめくっては、本棚へと戻していく。

「…様々な状況からの戦略。敵を誘導する駒の動かし方。
考えられる限りの駒の動きを記した物。いわば、チェスにおける個々の作戦を、紙に書き起こした様なものですよ。」
「すると、あのご老人は、時任執事にご自分の作戦を晒したわけですか?」
私の説明に、服部はなんだそりゃとばかりに肩を竦めて見せる。
「チェスで勝負する相手に、チェスの作戦を晒すとは、随分な自信家であられるようですねぇ。」

「…問題はそこではないんです、服部。」
さぞかし、今の私は青褪めている事だろう。
何十冊目か分からないファイルを棚に戻して、私は幽霊のようにフラリと本棚に向き直る。
「…こんな、図書館のような大量の定石など…馬鹿げている。」
「確かに、尋常ではない量ですなぁ。これをあのご老人はコレクションなさっておられるのでしょうか?」
「…いいや、見た限り全て同一の筆致です。おそらく、この書庫の物全てが。」
「全部が?それはすごい。何年掛かったことでしょうねぇ。」
世の中には暇な人もいるものですなぁ。そんな不遜な言葉を今にも吐きそうな表情で、服部は苦笑した。

「…私なら、ざっと見て二百年。」
「は?」
私のぼそりと告げた言葉に、服部が振り返る。

「これだけの定石、おそらくありとあらゆる盤面からの、ありとあらゆる戦略が詰め込められておりましょう。
つまり、彼はあらゆる盤面の状況から、どう打てば勝利するかの全てのパターンを、全て研究し尽くしている。
…チェスの歴史そのものに匹敵する、これだけの定石を練るのに、私なら…ニ百年はかかります。」

「それは、絶対に勝てないって意味ではございませんか?」
流石に状況が読み込めてか、服部が気味悪そうに書庫を見回しながら、問いかけてきた。

「…その通りです。」
私は答え、そして、まるでかの老主人の執念の具現化のような、果てしなく続く本棚を眺め回す。
「…何が”千の戦略の打手”ですか。千どころか満にも億にも達しましょうに…。」

否や、そこが問題なのではない。
やはり、あの老主人は。我が主たる大旦那様と同じ容姿を持つあの人物は…。
己の事を“神によりて造られず、ただ灰に還るべき化け物”と嗤った彼は…。

「…どれだけの時を生き、どれだけの執念を捧げれば、こんなことが出来るのですか。」

あの老主人は。

「…人間じゃありえない。」