開径待佳賓

健やかにお過ごしでいらっしゃいますか?
宗近でございます。

先日茶道を嗜む友人に誘われ小さな茶会へ呼んでいただく機会がございました。
(私自身は茶道からは縁遠い身でありますが、茶室の造りと茶菓子に惹かれてお招きにあずかったのは内緒でございます)

躙り口より席入りし、失礼にならぬよう造りを脳裏に焼き付けておりますと床の間の掛け軸に目が留まりました。

掛け軸には達筆で「開径待佳賓」と書かれておりました。
初めて眼にする言葉で意味するところも分かりませんでしたのでお茶会後に東に伺ってみたところ、「かいけいかひんをまつ」と読むこと、「荒れた小径をきれいに掃き清めて、素晴らしい客人が来るのを今か今かと待ち望むこと。転じて、準備を万全にして人を迎える心配り」であることを教えていただきました。

これは日々玄関でお嬢様をお出迎え、お見送りする私が当に心に留めておくべき言葉でございますね。
「かいけいかひんをまつ」
これからも玄関を掃き清め、お嬢様のお戻りを心待ちにいたしております。

無題

群馬県の桐生駅から伸びる、わたらせ渓谷鐵道。渡良瀬川に寄り添うように走る小さなローカル線がございます。

雄大な自然を望む、というよりは、木漏れ日が落ちる秘密基地に迷い込むような感覚、と申しましょうか。圧倒されるような荘厳さではなく、静かに包み込まれるような安心感のある自然の景色が、車窓の向こうにどこまでも続いている。

都会の喧騒から少しだけ距離を置き、心身を癒す旅にうってつけの鉄道でございます。

 

さて。

もっとも、その旅に、たいした宛てなどございませんでした。

なんとなくどこかへ行きたかった。ただそれだけの理由で選んだ列車にすぎません。

けれど、木材を基調とした古びたボックス席や、窓の向こうをゆっくり流れていく山々を眺めておりますと、まるで時計の針までもが少し遅く進んでいるような気がいたします。どこか、小説の中に入り込んだような気分でした。

目的地がないのなら、楽しそうな駅で降りればいい。もし肌に合わなければ、また次の列車に乗って別の場所へ行けばいい。当然、その夜に泊まる宿すら決めておりません。

要するに、なるようになるさの一人旅でございます。

羽目を外すならどこまでも。窓際の小さなテーブルには、駅のキオスクで買った酒とつまみを並べました。うずらの玉子、チーズちくわ、それに缶のハイボール。

翌日の必修の一限は、まァ、いいか……なんて気楽に考えながら、ゆっくりと缶を傾けます。

二十歳になりたての、小さな旅路。今となっては、少し、遠い記憶でございます。

ご機嫌麗しゅうございます。荒木田でございます。

突然ですが。時に、自分の本性とは何なのだろう、と考えることがございます。

MBTI診断、性格分析、自己診断チャート。血液型診断ももしかしたらそれに当たるかもしれませんが、近頃はそういったものが随分と流行っておりますね。

それが流行っていたのは少し前の話だろう、というのは一先ず置いておいて、まァ要するに、人間にとって「自分はいったい何者なのか」を知る欲求は決して小さくない、ということです。

どころかそれは時として、無理にでも考えなければならないテーマだったりもいたします。例えば学生であれば、進路選択の折に。社会人であれば、就職や転職、あるいは結婚や家庭といったライフステージ、人生の節目に。

嫌でも、自分自身と向き合わされる瞬間が訪れます。

自分は何が好きなのか。何をしたいのか。どんな人間でありたいのか。エトセトラエトセトラ。

自己分析、などという言葉を使いますと、途端に就職活動みたいになってしまうのでこの言葉は避けましょう。

そんな自分の本性について。概ね、明瞭な回答が出ることはありません。

自分は何が好きなんだろう、何をしたいんだろう、どんな人間なんだろう、と。あらゆる疑念が渦の中に取り込まれてしまいます。

それはおそらく、人間が単一の人格ではないが故でございます。

人は、仮面をかぶる生き物でございますから。”仮面”というと良からぬことをしている響きがございますが、別に悪いことではございません。
家族に見せる顔。友人に見せる顔。職場での顔。恋人に見せる顔。そのどれもが完全に同一、という方のほうが少数派でございましょう。

それではそもそも、何故人間はこうした仮面を使い分けるのでしょうか。
私が思うに、それは環境に適応するためだと存じます。
人間が生きている社会は、様々な側面と様々な区切りによって環境が異なっており、それぞれの環境で不足なく生きていくには、それぞれの環境への適応が不可欠です。
言い換えれば、これらの仮面は、環境が作り出したもの、と言っても差し支えございません。

そして、これらの仮面は対外的なものに限りません。憧れや自己実現も、仮面の一枚に当たるでしょう。それも、環境への適応なのです。得られた知識や知恵、これらも外的環境の一因ですから。
例えば、先ほどの一人旅の話なんかは、まさしく。

二十歳そこらの餓鬼に、酒の味など分かるはずもなく。ハイボールというのは、こんなに美味しくないものかと目を丸くしました。つまみに選んだうずらの玉子とチーズちくわも、別に好物ではございません。同じ金額を払うのであれば、もっとジャンクなお菓子の方が好きでした。ポテトチップスですとか、濃い味のスナックですとか。

二十歳なんて、そんなものでございます。
けれど、その時の私は「そういう旅をする人間」に憧れておりました。
ローカル線に揺られ、車窓を肴に独り酒を飲む青年。
行き先も決めず、気ままに途中下車を繰り返す旅人。
どこか人生に余白を持っているような大人。
だから私は、背伸びをしてその仮面を選び取りました。別に誰にそう見られたかったわけでもなく、自分がそうなりたかったから。
“ほんとうの自分”はそんな人間じゃなかったのに。

さて。
では改めて、自分とは何か、を考える時。多くの人は、この仮面の内側の顔を探そうとします。誰に対してでも、何に対してでもない自分自身を。等身大のほんとうの自分を求めて、それこそが、自分なのだと言わんばかりに。
社会性、自己実現、承認欲求。そういった、環境によって与えられ、環境によって培われた自分の仮面を一枚ずつ剥いで行ったとき、最後に顕現するものこそが自分の本性そのものである、と。

果たして、これは本当にそうでしょうか?
……私は、そうは思いません。
なぜなら、そこには何も残らないからです。

自らの仮面。思想。理念。行動原理。これらは全て、環境に与えられたものです。仮面を剥ぐ、ということは、環境と経験を消し去り、過去の自分に相対することに他なりません。
そんなことを繰り返せば、生命の定義は置いておいて、いずれは無垢な赤ん坊の状態へと帰結するでしょう。もう少しさかのぼって細胞レベルの話まで行き着くかは人それぞれ。

それが、本性?
であれば、本性とは極めて生物学的な欲求の塊に帰結しますね。生命活動を伴う遺伝子の乗り物こそが本性である、と、言っているのと何ら変わりはありません。まるで人間の中心には、絶対不変の核が存在していて、余計なものを削ぎ落とせば、最後に純粋な本性が残る、とでも言いたげな論調です。スピリチュアリズムに傾倒すれば、それを魂だのやいの言うんでしょうが。生憎、私は実存主義の決定論者ですので。

むしろ、逆なのです。環境によって醸成された数多の仮面こそが、それぞれの本性なのです。

例えるなら、玉ねぎみたいなものでしょうか。いいですね、急に俗っぽくて。
皮を剥いていく。一枚剥いて、また一枚剥く。すると中心に何か神聖な核があるわけではなく、結局どこまでいっても玉ねぎでしかございません。
ですが、それの何が悪いのでしょう。
人間の本性とは、剥がした後に残るものではなく、剥がしてきたその全てなのだと存じます。

仮面とは、虚飾ではありません。環境への適応と、憧れによる自己形成なのです。
だからこそ、それらは自分を偽るためではなく”こう在りたい”という願望そのものなのです。
そしてそこに、強烈で、鮮烈な、自我が滲むのです。
つまり、本性とは固定された核ではなく「どう在ろうとしたか」の総体なのではないでしょうか。

で、あれば。
格好つけることも背伸びをすることも決して空虚な行いではございません。

例えば。知的な人間に憧れるから本を読む。余裕のある大人に憧れるから、静かな喫茶店でブラックコーヒーを飲んでみる。強い人間に憧れるから、少しだけ弱音を飲み込む。優しい人間に憧れるから、ほんの少し言葉を選ぶ。
知的でない自分も、知的になりたい自分も。子供っぽい自分も、大人に憧れる自分も、強い自分も、弱い自分も、その全てが自分の本性足りえるのです。
それらの振る舞いは、決して偽物などではございません。
人間とは、環境によって形作られる生き物であり、それと同時に、憧れによって自らを変容させていく生き物でもあるからです。

さて。
それでは我に立ち返って、今一度自分自身の本性を考えてみれば。
私は私自身のありとあらゆる事象について、それが誰かと合わせるためのものなのか、憧れに拠るものなのか、本当に好きでそうしているのか。最早、よく分からないことだらけでございます。
ただ、極めて自然にハイボールを嗜み、うずらの卵やチーズちくわに舌鼓を打ち、何も考えずにどこかへ行く。(バイクなんて移動手段も手にしましたから、あの頃と比べてより縦横無尽でございます。)
私が今現在そういう人間であることは確かであり、そしてそれは、あの頃の自分にとって”ほんとうの自分”とは思っていなかった自分自身なのです。

なかなか面白いもので、憧憬に拠る仮面のもと、最初はぎこちなかった振る舞いというのは、何度か繰り返しているうちに、だんだんと板についてくるものなのです。演技だったはずのものが、少しずつ、自分自身に馴染んでいく。それはある種、自己暗示に近いのかもしれません。
けれど私は、この自己暗示というものを、そこまで悪いものだとは思っておりません。

むしろ人間というのは、自己暗示によって成長する生き物なのではないでしょうか。
そう、”成長”なのです。仮面を被ることは、虚飾でも、強がりでも背伸びでもありません。自分自身を鍛え上げ、強く逞しくする行いに他ならないのです。

だからこそ、勿体ないのは、そういった仮面を自分自身ではないと決めつけ廃棄してしまうことです。
こんなの自分らしくない。
自分にはこんなことできない。
自分はこんな人間じゃない。
肝要なのはそれらを受容し、肯定することでございます。
例えば、背伸びをしている自分。
格好をつけている自分。
無理をして明るく振る舞っている自分。
私は、しばしば人が偽物として扱いたがるそれらを単なる虚像だとは思いません。
そうなりたいという憧れそのものが、既にその人の本性なのです。

人間の本性とは、仮面を剥いだその奥ではなく。
何に憧れ、何を選び、どんな仮面を愛したか、というその積み重ねそのものなのでございましょう。

ですから、改めて自分、というものを見つめた時。
どうか、「こんな自分では駄目だ」と切り捨てるのではなく。
「まあ、こうなりたかったんだな」と、少しだけ優しく受け止めてくださいませ。

そして是非、こうなりたいという自分自身を肯定することで、きっとより素敵な人生を歩めるはずでございます。

花王風格

ご機嫌麗しゅうございます。お嬢様。

いったい何が起きているのでしょう?

4月に28度の夏日があり、意味が分からないよ…と思った日があったのもつかの間、まだ5月だというのに東京で30度を超える真夏日、そして連日の激しい朝晩の寒暖差。

体調崩されておりませんか?心配でございます。

 

葉山でございます。

 

さて、今年は花の時期も例年に比べると大幅に前にずれ込み今が見ごろのはずの藤の花も東京ではすでに終わりを迎えているとの知らせを耳にいたしました。

花を見に行く予定を来週にしようなどと考えていると痛い目を見るなんてことも。

 

ならばと季節の花を見に今日も元気にお散歩でございます。

 

 

 

 

 

 

 

本日愛でに来た花は「百花の王」とも呼ばれる牡丹の花でございます。

 

牡丹は花が非常に大きく、可憐で優雅。

大きなものになると30センチほどになるものも。

薄い絹のような花びらが幾重にも重なり、まるでドレスの様。咲くというより花開くや花満ちるといった表現が似合う花。

ちなみに冬に咲かせる寒牡丹や冬牡丹なる品種もございますが、こちらは冬に咲くように工夫され手の加えられたものでございます。

雪の中で大輪を開いている姿を何かでご覧になったことがあるのではないでしょうか。

 

そして「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とまるで当家のお嬢様方を表現しているかのような言葉がとても有名ですね。

芍薬と牡丹は非常に似ている花ですが簡単に申しますと「芍薬は草として育ち」「牡丹は木に咲く」という違いがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

牡丹は華やかで凛としていて、優しく立派に気高く咲き誇っておりました。

牡丹は暑さや日差し、雨や湿気に弱い花。その華やかさとは裏腹に咲いている時間は長くはございません。

だからこそ「美しさの儚さ」や「今という時の尊さ」を人はこの花に感じてしまうのでしょう。

 

風に揺れる花を眺めながら、もしお嬢様がこの景色をご覧になられたらどの花をお好きになるだろうかと考えずにはいられない、そんな過行く春の一日でした。

春のさいきょうえん〜The True Last Dance〜

お嬢様、お坊ちゃまご機嫌麗しゅうございます。

冴島でございます。

先日、当家ティーサロンにてカクテルイベントを使用人の久保と共に開催させていただきました。

お越しいただいたお嬢様、お坊ちゃまは誠にありがとうございました。

今回は去年の春に開催致しましたカクテルイベント春のきょうえんのリバイバルとして味のベースは変えずに悪戯心をプラスしアレンジしたお品でございました。

久保と共にお作りした過去のカクテルよりぱちぱちキャンディーやキラキラパウダーなどを採用しまさに集大成と呼ぶに相応しいお品になったのではないかと存じます。

毎回これが最後になっても後悔しないくらい全力のカクテルをお送りするという気持ちを込めてお作りする久保とのカクテルでございますが今回も無事にやり切ることができて安堵しております。

お越しいただいたお嬢様、お坊ちゃまにもお楽しみいただけたなら幸いでございます。

今回のカクテルも裏話などもございますのでお戻りの際にはお話いたしましょう。

またご帰宅の際にはぜひ感想などもお聞かせくださいませ。

それでは今月も当家ティーサロンにてお帰りをお待ちしております。

 

冴島

夕立や 空が鳴いたら 腹もまた

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様、お坊ちゃま。
藤波でございます。
この頃突然夏日のように気温が上がったと思いきや通り雨に遭ったりと、空が慌ただしい日々でございますがいかがお過ごしでしょうか。

私は咲いては雨に散ってゆく花々を眺めて、時間の流れの儚さを感じております。始まりと終わりがあるからこそ美しく感じるのかと、ふと物思いに耽ったり。

私事ではございますが、6月1日に葉山執事とエクストラティーを開催させていただく運びとなりました。

たとえ曇天であっても、変わらぬ癒やしと安らぎをお届けすることができるように。
二人で作戦会議をしつつ、こころがほんのり和らぐ一杯を。

また、広い空が閉じているからこそ、視線を少し落として、身の回りの日常やお嬢様、お坊ちゃま全てに改めて感謝を込めて、お届けいたします。

ぜひ、ご帰宅を心よりお待ち申し上げております。

藤波

トマト

ご機嫌麗しゅうございます。
環でございます。

今年も野菜を育てております。
去年は色々な野菜にチャレンジしましたが、今年はトマトを中心に育てております。

野菜の中でも一番力強く育つトマト。
水やりの難しさもそこまでなく、充分に日の当たる場所に置いておければすくすくと育ちます。

現在、青い実がポツポツとつき始めました。
しっかりとした実になったらまたこちらで報告させていただきますので、楽しみにお待ちくださいませ。

私自身も楽しみにしております。
たくさんなりますように。

それでは。

五月晴れ

お嬢様、お坊ちゃま、
ご機嫌麗しゅうございます。
佐倉でございます。

5月、気温の変化も激しく、お召し物の選択も少々難しい季節となってまいりました。
お嬢様、お坊ちゃまにおきましては、いかがお過ごしでございましょうか。
新年度も始まり一月程、ご無理はなさらず、しっかりと休息をお取りいただき、健やかにお過ごし頂けることを願ってございます。

さて、先日、「五月晴れ」(さつきばれ)という言葉を見かける事がございました。
五月と名のつくように、「五月の爽快な晴れ」という意味で使用されており、確かに五月は良い日和が大変多くございますので、その際はそれ程気になるということは無いものでございました。
しかし、後日、他の場所では「梅雨の間の晴れ間」という意味で「五月晴れ」という言葉が使われており、少々困惑したものにございます。
実のところ、どちらも間違いではなく、以前は旧暦の五月、つまりは現在の梅雨の時期に差す晴れ間の事を指しており、現代では新暦の五月の爽快な晴れ間を指す言葉としても使われている、とのことでございました。
今では、どちらの意味でも辞書に記載されているとの事でございまして、時間とともに意味の変わる言葉というものもあるのか、と少々驚いた次第にございます。

日本で新暦が使われ始めたのは1873年頃。
今から約150年ほど前の事にございます。
150年という年月は、一つの言葉の意味を変えてしまう程の重みがあるということに、歴史の深みを感じたものにございます。
今から更に150年後の世界はどの様になっているのでございましょうか。
「五月晴れ」の第三の意味が辞書に記載されているのかもしれません。
などと、未来に思いを馳せたりなどいたしました。

お嬢様、お坊ちゃま、
私は皆様の健康と、そして輝かしい「未来」をいつも願ってございます。
また、元気なお姿を拝見できる事を楽しみに、ティーサロンでお待ちしてございます。