群馬県の桐生駅から伸びる、わたらせ渓谷鐵道。渡良瀬川に寄り添うように走る小さなローカル線がございます。
雄大な自然を望む、というよりは、木漏れ日が落ちる秘密基地に迷い込むような感覚、と申しましょうか。圧倒されるような荘厳さではなく、静かに包み込まれるような安心感のある自然の景色が、車窓の向こうにどこまでも続いている。
都会の喧騒から少しだけ距離を置き、心身を癒す旅にうってつけの鉄道でございます。
さて。
もっとも、その旅に、たいした宛てなどございませんでした。
なんとなくどこかへ行きたかった。ただそれだけの理由で選んだ列車にすぎません。
けれど、木材を基調とした古びたボックス席や、窓の向こうをゆっくり流れていく山々を眺めておりますと、まるで時計の針までもが少し遅く進んでいるような気がいたします。どこか、小説の中に入り込んだような気分でした。
目的地がないのなら、楽しそうな駅で降りればいい。もし肌に合わなければ、また次の列車に乗って別の場所へ行けばいい。当然、その夜に泊まる宿すら決めておりません。
要するに、なるようになるさの一人旅でございます。
羽目を外すならどこまでも。窓際の小さなテーブルには、駅のキオスクで買った酒とつまみを並べました。うずらの玉子、チーズちくわ、それに缶のハイボール。
翌日の必修の一限は、まァ、いいか……なんて気楽に考えながら、ゆっくりと缶を傾けます。
二十歳になりたての、小さな旅路。今となっては、少し、遠い記憶でございます。
ご機嫌麗しゅうございます。荒木田でございます。
突然ですが。時に、自分の本性とは何なのだろう、と考えることがございます。
MBTI診断、性格分析、自己診断チャート。血液型診断ももしかしたらそれに当たるかもしれませんが、近頃はそういったものが随分と流行っておりますね。
それが流行っていたのは少し前の話だろう、というのは一先ず置いておいて、まァ要するに、人間にとって「自分はいったい何者なのか」を知る欲求は決して小さくない、ということです。
どころかそれは時として、無理にでも考えなければならないテーマだったりもいたします。例えば学生であれば、進路選択の折に。社会人であれば、就職や転職、あるいは結婚や家庭といったライフステージ、人生の節目に。
嫌でも、自分自身と向き合わされる瞬間が訪れます。
自分は何が好きなのか。何をしたいのか。どんな人間でありたいのか。エトセトラエトセトラ。
自己分析、などという言葉を使いますと、途端に就職活動みたいになってしまうのでこの言葉は避けましょう。
そんな自分の本性について。概ね、明瞭な回答が出ることはありません。
自分は何が好きなんだろう、何をしたいんだろう、どんな人間なんだろう、と。あらゆる疑念が渦の中に取り込まれてしまいます。
それはおそらく、人間が単一の人格ではないが故でございます。
人は、仮面をかぶる生き物でございますから。”仮面”というと良からぬことをしている響きがございますが、別に悪いことではございません。
家族に見せる顔。友人に見せる顔。職場での顔。恋人に見せる顔。そのどれもが完全に同一、という方のほうが少数派でございましょう。
それではそもそも、何故人間はこうした仮面を使い分けるのでしょうか。
私が思うに、それは環境に適応するためだと存じます。
人間が生きている社会は、様々な側面と様々な区切りによって環境が異なっており、それぞれの環境で不足なく生きていくには、それぞれの環境への適応が不可欠です。
言い換えれば、これらの仮面は、環境が作り出したもの、と言っても差し支えございません。
そして、これらの仮面は対外的なものに限りません。憧れや自己実現も、仮面の一枚に当たるでしょう。それも、環境への適応なのです。得られた知識や知恵、これらも外的環境の一因ですから。
例えば、先ほどの一人旅の話なんかは、まさしく。
二十歳そこらの餓鬼に、酒の味など分かるはずもなく。ハイボールというのは、こんなに美味しくないものかと目を丸くしました。つまみに選んだうずらの玉子とチーズちくわも、別に好物ではございません。同じ金額を払うのであれば、もっとジャンクなお菓子の方が好きでした。ポテトチップスですとか、濃い味のスナックですとか。
二十歳なんて、そんなものでございます。
けれど、その時の私は「そういう旅をする人間」に憧れておりました。
ローカル線に揺られ、車窓を肴に独り酒を飲む青年。
行き先も決めず、気ままに途中下車を繰り返す旅人。
どこか人生に余白を持っているような大人。
だから私は、背伸びをしてその仮面を選び取りました。別に誰にそう見られたかったわけでもなく、自分がそうなりたかったから。
“ほんとうの自分”はそんな人間じゃなかったのに。
さて。
では改めて、自分とは何か、を考える時。多くの人は、この仮面の内側の顔を探そうとします。誰に対してでも、何に対してでもない自分自身を。等身大のほんとうの自分を求めて、それこそが、自分なのだと言わんばかりに。
社会性、自己実現、承認欲求。そういった、環境によって与えられ、環境によって培われた自分の仮面を一枚ずつ剥いで行ったとき、最後に顕現するものこそが自分の本性そのものである、と。
果たして、これは本当にそうでしょうか?
……私は、そうは思いません。
なぜなら、そこには何も残らないからです。
自らの仮面。思想。理念。行動原理。これらは全て、環境に与えられたものです。仮面を剥ぐ、ということは、環境と経験を消し去り、過去の自分に相対することに他なりません。
そんなことを繰り返せば、生命の定義は置いておいて、いずれは無垢な赤ん坊の状態へと帰結するでしょう。もう少しさかのぼって細胞レベルの話まで行き着くかは人それぞれ。
それが、本性?
であれば、本性とは極めて生物学的な欲求の塊に帰結しますね。生命活動を伴う遺伝子の乗り物こそが本性である、と、言っているのと何ら変わりはありません。まるで人間の中心には、絶対不変の核が存在していて、余計なものを削ぎ落とせば、最後に純粋な本性が残る、とでも言いたげな論調です。スピリチュアリズムに傾倒すれば、それを魂だのやいの言うんでしょうが。生憎、私は実存主義の決定論者ですので。
むしろ、逆なのです。環境によって醸成された数多の仮面こそが、それぞれの本性なのです。
例えるなら、玉ねぎみたいなものでしょうか。いいですね、急に俗っぽくて。
皮を剥いていく。一枚剥いて、また一枚剥く。すると中心に何か神聖な核があるわけではなく、結局どこまでいっても玉ねぎでしかございません。
ですが、それの何が悪いのでしょう。
人間の本性とは、剥がした後に残るものではなく、剥がしてきたその全てなのだと存じます。
仮面とは、虚飾ではありません。環境への適応と、憧れによる自己形成なのです。
だからこそ、それらは自分を偽るためではなく”こう在りたい”という願望そのものなのです。
そしてそこに、強烈で、鮮烈な、自我が滲むのです。
つまり、本性とは固定された核ではなく「どう在ろうとしたか」の総体なのではないでしょうか。
で、あれば。
格好つけることも背伸びをすることも決して空虚な行いではございません。
例えば。知的な人間に憧れるから本を読む。余裕のある大人に憧れるから、静かな喫茶店でブラックコーヒーを飲んでみる。強い人間に憧れるから、少しだけ弱音を飲み込む。優しい人間に憧れるから、ほんの少し言葉を選ぶ。
知的でない自分も、知的になりたい自分も。子供っぽい自分も、大人に憧れる自分も、強い自分も、弱い自分も、その全てが自分の本性足りえるのです。
それらの振る舞いは、決して偽物などではございません。
人間とは、環境によって形作られる生き物であり、それと同時に、憧れによって自らを変容させていく生き物でもあるからです。
さて。
それでは我に立ち返って、今一度自分自身の本性を考えてみれば。
私は私自身のありとあらゆる事象について、それが誰かと合わせるためのものなのか、憧れに拠るものなのか、本当に好きでそうしているのか。最早、よく分からないことだらけでございます。
ただ、極めて自然にハイボールを嗜み、うずらの卵やチーズちくわに舌鼓を打ち、何も考えずにどこかへ行く。(バイクなんて移動手段も手にしましたから、あの頃と比べてより縦横無尽でございます。)
私が今現在そういう人間であることは確かであり、そしてそれは、あの頃の自分にとって”ほんとうの自分”とは思っていなかった自分自身なのです。
なかなか面白いもので、憧憬に拠る仮面のもと、最初はぎこちなかった振る舞いというのは、何度か繰り返しているうちに、だんだんと板についてくるものなのです。演技だったはずのものが、少しずつ、自分自身に馴染んでいく。それはある種、自己暗示に近いのかもしれません。
けれど私は、この自己暗示というものを、そこまで悪いものだとは思っておりません。
むしろ人間というのは、自己暗示によって成長する生き物なのではないでしょうか。
そう、”成長”なのです。仮面を被ることは、虚飾でも、強がりでも背伸びでもありません。自分自身を鍛え上げ、強く逞しくする行いに他ならないのです。
だからこそ、勿体ないのは、そういった仮面を自分自身ではないと決めつけ廃棄してしまうことです。
こんなの自分らしくない。
自分にはこんなことできない。
自分はこんな人間じゃない。
肝要なのはそれらを受容し、肯定することでございます。
例えば、背伸びをしている自分。
格好をつけている自分。
無理をして明るく振る舞っている自分。
私は、しばしば人が偽物として扱いたがるそれらを単なる虚像だとは思いません。
そうなりたいという憧れそのものが、既にその人の本性なのです。
人間の本性とは、仮面を剥いだその奥ではなく。
何に憧れ、何を選び、どんな仮面を愛したか、というその積み重ねそのものなのでございましょう。
ですから、改めて自分、というものを見つめた時。
どうか、「こんな自分では駄目だ」と切り捨てるのではなく。
「まあ、こうなりたかったんだな」と、少しだけ優しく受け止めてくださいませ。
そして是非、こうなりたいという自分自身を肯定することで、きっとより素敵な人生を歩めるはずでございます。