はや夏服

肌寒さがようやく初夏の陽気にバトンを渡す気になったと思いきや、蒸した空気がそこかしこに流れ込んできてございますね。

 

 

お嬢様方、いかがお過ごしでございましょうか。

香川でございます。

 

 

ティーサロンでも夏服の季節でございます。

一年たったということでございますね。

 

 

一年後のことを想像したとして、その通りになっていることなどどれだけあるのでございましょう。

このところは特に想像が追い付かぬ事態も多いように存じます。

 

 

ただ、

 

 

想像するからこそその未来への希望を思い描くことができ、

 

想像力を豊かにする努力をし続けるからこそ、

 

短絡的な行動を控えられるようにもなるのではないかと存じます。

 

 

思考するためには言語が必要。

 

その言葉を巧みにあやつるためにも、思考の源たる脳に良い刺激を。

 

 

今月、とうとうミニバーの開催を仰せつかり、初挑戦への大いなる刺激を頂戴しております。

 

 

本格的な夏が訪れる前に、

御身におかれましてもご自身なりのチャレンジをどうぞ。

 

 

われわれはいつでもお嬢様方を応援しております。

クリームティーをもう一度

影山でございます。

6月前半にわたくしの考案した

『クロテッドクリームアイス』をご用意いたします。

このクロテッドクリームアイスは実はご用意するのがなかなか難しく、パティシエの頑張りにより実現してございます。
感謝でございます。

お嬢様には是非、
当家自慢のスコーンとともに、
クリームティーを楽しんでもらいたいという想いが強くございますので、
ご用意が叶って嬉しゅうございます。

『クロテッドクリームアイスの召し上り方』

1、クロテッドクリームアイスをクリームティーにしてお召し上がりしていただく。

2、クロテッドクリームアイスをそのままお召し上がりいただく。

3、一緒についてくるホットチョコレートソースを使ってアイスにかけていただき、パリパリになったチョコと一緒に召し上がっていただく。

様々な楽しみ方がございます。

是非ご賞味くださいませ!

季節変わり目の健康管理

お嬢様、ご機嫌麗しゅうございます。
宗方でございます。

今年は早い時期から暑い日が多くございますが、いかがお過ごしでございますか。

本日の中庭では薔薇たちが綺麗に咲き誇っておりました。
今年の花は少し足が速い印象がございますので、是非お早めにご覧くださいませ。

さて、先月よりティーサロンでのお給仕の機会を頂くことが増え、気づいたことがございます。

もったいぶる程の事でもございませんので申し上げますと、使用人達の間での肉体鍛錬が流行しているようでございます。

季節などを含めた時期の影響もございましょうが、運動や健康に対する意識が強まっているようでございますね。

かく言う私も、この頃食事に気を使っておりまして、肉体鍛錬が中心ではございませんが、腸内環境を整えようと試みております。

以前の私もそうでございましたが、食事を変えるというと身構えてしまう方もいらっしゃるかと存じます。

ですが、あくまで私の経験ということで申しますと、普段の食事に納豆やキノコ類、ヨーグルトなどの発酵食品を加えるところからでも十分でございました。余裕があれば、食物繊維やビタミンなども意識的に摂るとなお良いかと存じます。

気温や湿度の変化も激しい時期でございますので、しっかりと体力をつけてお元気にお過ごしくださいませ。

お帰りをお待ち申し上げております。

宗方

オリエント急行

お嬢様、お坊っちゃま、ご機嫌いかがで御座いましょう、金澤でございます。
今回は「一生に一度は叶えたい夢」のお話です。

私は夢の一つに、「オリエント急行に乗る」があります
小学生の頃に本で見たときからずっと思い続けております。
それが叶ったのが約10年前、いやちょっとだけ叶った?
まあ正しくは過去にオリエント急行で使われていた本物の車両に乗ったのです。

処は箱根ラリック美術館
敷地内に保存されている車両は、「プルマン4158」、1929年フランスで製造された最高級サロン車、内装にはラリックのガラスパネルを使用したアール・デコ様式の装飾が施されており、まさに走る芸術品といわれております。
製造からヨーロッパでの活躍が中心ですが、過去(1988年)に行われた超大型企画により日本の線路を走った事もあるのです。
そして現在はその歴史的車両でお茶を楽しむことが出来るのです。
わたしは唯々感動し夢がちょっとだけ叶った事に優雅な車内で涙したのでした。

まだ夢は継続中、改めて
「動くオリエント急行に乗る」を思い続けております

叶えるとするならば、大旦那、お嬢様、お坊っちゃま、のヨーロッパ旅行の荷物持ちとして同行し是非ともオリエント急行に乗車していただいて…

ん?今、「自力で頑張りなさい!」と聞こえたような…

今はいつの日か叶う事を思いながら、プルマン4158の模型を夕日に照してみたり

 

 

 

 

青空フリーマーケットで手に入れた桃山のオリエントエクスプレスの酒器で脳内旅行を楽しんでおります。

 

 

 

 

 

『 異邦人 』♪

開径待佳賓

健やかにお過ごしでいらっしゃいますか?
宗近でございます。

先日茶道を嗜む友人に誘われ小さな茶会へ呼んでいただく機会がございました。
(私自身は茶道からは縁遠い身でありますが、茶室の造りと茶菓子に惹かれてお招きにあずかったのは内緒でございます)

躙り口より席入りし、失礼にならぬよう造りを脳裏に焼き付けておりますと床の間の掛け軸に目が留まりました。

掛け軸には達筆で「開径待佳賓」と書かれておりました。
初めて眼にする言葉で意味するところも分かりませんでしたのでお茶会後に東に伺ってみたところ、「かいけいかひんをまつ」と読むこと、「荒れた小径をきれいに掃き清めて、素晴らしい客人が来るのを今か今かと待ち望むこと。転じて、準備を万全にして人を迎える心配り」であることを教えていただきました。

これは日々玄関でお嬢様をお出迎え、お見送りする私が当に心に留めておくべき言葉でございますね。
「かいけいかひんをまつ」
これからも玄関を掃き清め、お嬢様のお戻りを心待ちにいたしております。

無題

群馬県の桐生駅から伸びる、わたらせ渓谷鐵道。渡良瀬川に寄り添うように走る小さなローカル線がございます。

雄大な自然を望む、というよりは、木漏れ日が落ちる秘密基地に迷い込むような感覚、と申しましょうか。圧倒されるような荘厳さではなく、静かに包み込まれるような安心感のある自然の景色が、車窓の向こうにどこまでも続いている。

都会の喧騒から少しだけ距離を置き、心身を癒す旅にうってつけの鉄道でございます。

 

さて。

もっとも、その旅に、たいした宛てなどございませんでした。

なんとなくどこかへ行きたかった。ただそれだけの理由で選んだ列車にすぎません。

けれど、木材を基調とした古びたボックス席や、窓の向こうをゆっくり流れていく山々を眺めておりますと、まるで時計の針までもが少し遅く進んでいるような気がいたします。どこか、小説の中に入り込んだような気分でした。

目的地がないのなら、楽しそうな駅で降りればいい。もし肌に合わなければ、また次の列車に乗って別の場所へ行けばいい。当然、その夜に泊まる宿すら決めておりません。

要するに、なるようになるさの一人旅でございます。

羽目を外すならどこまでも。窓際の小さなテーブルには、駅のキオスクで買った酒とつまみを並べました。うずらの玉子、チーズちくわ、それに缶のハイボール。

翌日の必修の一限は、まァ、いいか……なんて気楽に考えながら、ゆっくりと缶を傾けます。

二十歳になりたての、小さな旅路。今となっては、少し、遠い記憶でございます。

ご機嫌麗しゅうございます。荒木田でございます。

突然ですが。時に、自分の本性とは何なのだろう、と考えることがございます。

MBTI診断、性格分析、自己診断チャート。血液型診断ももしかしたらそれに当たるかもしれませんが、近頃はそういったものが随分と流行っておりますね。

それが流行っていたのは少し前の話だろう、というのは一先ず置いておいて、まァ要するに、人間にとって「自分はいったい何者なのか」を知る欲求は決して小さくない、ということです。

どころかそれは時として、無理にでも考えなければならないテーマだったりもいたします。例えば学生であれば、進路選択の折に。社会人であれば、就職や転職、あるいは結婚や家庭といったライフステージ、人生の節目に。

嫌でも、自分自身と向き合わされる瞬間が訪れます。

自分は何が好きなのか。何をしたいのか。どんな人間でありたいのか。エトセトラエトセトラ。

自己分析、などという言葉を使いますと、途端に就職活動みたいになってしまうのでこの言葉は避けましょう。

そんな自分の本性について。概ね、明瞭な回答が出ることはありません。

自分は何が好きなんだろう、何をしたいんだろう、どんな人間なんだろう、と。あらゆる疑念が渦の中に取り込まれてしまいます。

それはおそらく、人間が単一の人格ではないが故でございます。

人は、仮面をかぶる生き物でございますから。”仮面”というと良からぬことをしている響きがございますが、別に悪いことではございません。
家族に見せる顔。友人に見せる顔。職場での顔。恋人に見せる顔。そのどれもが完全に同一、という方のほうが少数派でございましょう。

それではそもそも、何故人間はこうした仮面を使い分けるのでしょうか。
私が思うに、それは環境に適応するためだと存じます。
人間が生きている社会は、様々な側面と様々な区切りによって環境が異なっており、それぞれの環境で不足なく生きていくには、それぞれの環境への適応が不可欠です。
言い換えれば、これらの仮面は、環境が作り出したもの、と言っても差し支えございません。

そして、これらの仮面は対外的なものに限りません。憧れや自己実現も、仮面の一枚に当たるでしょう。それも、環境への適応なのです。得られた知識や知恵、これらも外的環境の一因ですから。
例えば、先ほどの一人旅の話なんかは、まさしく。

二十歳そこらの餓鬼に、酒の味など分かるはずもなく。ハイボールというのは、こんなに美味しくないものかと目を丸くしました。つまみに選んだうずらの玉子とチーズちくわも、別に好物ではございません。同じ金額を払うのであれば、もっとジャンクなお菓子の方が好きでした。ポテトチップスですとか、濃い味のスナックですとか。

二十歳なんて、そんなものでございます。
けれど、その時の私は「そういう旅をする人間」に憧れておりました。
ローカル線に揺られ、車窓を肴に独り酒を飲む青年。
行き先も決めず、気ままに途中下車を繰り返す旅人。
どこか人生に余白を持っているような大人。
だから私は、背伸びをしてその仮面を選び取りました。別に誰にそう見られたかったわけでもなく、自分がそうなりたかったから。
“ほんとうの自分”はそんな人間じゃなかったのに。

さて。
では改めて、自分とは何か、を考える時。多くの人は、この仮面の内側の顔を探そうとします。誰に対してでも、何に対してでもない自分自身を。等身大のほんとうの自分を求めて、それこそが、自分なのだと言わんばかりに。
社会性、自己実現、承認欲求。そういった、環境によって与えられ、環境によって培われた自分の仮面を一枚ずつ剥いで行ったとき、最後に顕現するものこそが自分の本性そのものである、と。

果たして、これは本当にそうでしょうか?
……私は、そうは思いません。
なぜなら、そこには何も残らないからです。

自らの仮面。思想。理念。行動原理。これらは全て、環境に与えられたものです。仮面を剥ぐ、ということは、環境と経験を消し去り、過去の自分に相対することに他なりません。
そんなことを繰り返せば、生命の定義は置いておいて、いずれは無垢な赤ん坊の状態へと帰結するでしょう。もう少しさかのぼって細胞レベルの話まで行き着くかは人それぞれ。

それが、本性?
であれば、本性とは極めて生物学的な欲求の塊に帰結しますね。生命活動を伴う遺伝子の乗り物こそが本性である、と、言っているのと何ら変わりはありません。まるで人間の中心には、絶対不変の核が存在していて、余計なものを削ぎ落とせば、最後に純粋な本性が残る、とでも言いたげな論調です。スピリチュアリズムに傾倒すれば、それを魂だのやいの言うんでしょうが。生憎、私は実存主義の決定論者ですので。

むしろ、逆なのです。環境によって醸成された数多の仮面こそが、それぞれの本性なのです。

例えるなら、玉ねぎみたいなものでしょうか。いいですね、急に俗っぽくて。
皮を剥いていく。一枚剥いて、また一枚剥く。すると中心に何か神聖な核があるわけではなく、結局どこまでいっても玉ねぎでしかございません。
ですが、それの何が悪いのでしょう。
人間の本性とは、剥がした後に残るものではなく、剥がしてきたその全てなのだと存じます。

仮面とは、虚飾ではありません。環境への適応と、憧れによる自己形成なのです。
だからこそ、それらは自分を偽るためではなく”こう在りたい”という願望そのものなのです。
そしてそこに、強烈で、鮮烈な、自我が滲むのです。
つまり、本性とは固定された核ではなく「どう在ろうとしたか」の総体なのではないでしょうか。

で、あれば。
格好つけることも背伸びをすることも決して空虚な行いではございません。

例えば。知的な人間に憧れるから本を読む。余裕のある大人に憧れるから、静かな喫茶店でブラックコーヒーを飲んでみる。強い人間に憧れるから、少しだけ弱音を飲み込む。優しい人間に憧れるから、ほんの少し言葉を選ぶ。
知的でない自分も、知的になりたい自分も。子供っぽい自分も、大人に憧れる自分も、強い自分も、弱い自分も、その全てが自分の本性足りえるのです。
それらの振る舞いは、決して偽物などではございません。
人間とは、環境によって形作られる生き物であり、それと同時に、憧れによって自らを変容させていく生き物でもあるからです。

さて。
それでは我に立ち返って、今一度自分自身の本性を考えてみれば。
私は私自身のありとあらゆる事象について、それが誰かと合わせるためのものなのか、憧れに拠るものなのか、本当に好きでそうしているのか。最早、よく分からないことだらけでございます。
ただ、極めて自然にハイボールを嗜み、うずらの卵やチーズちくわに舌鼓を打ち、何も考えずにどこかへ行く。(バイクなんて移動手段も手にしましたから、あの頃と比べてより縦横無尽でございます。)
私が今現在そういう人間であることは確かであり、そしてそれは、あの頃の自分にとって”ほんとうの自分”とは思っていなかった自分自身なのです。

なかなか面白いもので、憧憬に拠る仮面のもと、最初はぎこちなかった振る舞いというのは、何度か繰り返しているうちに、だんだんと板についてくるものなのです。演技だったはずのものが、少しずつ、自分自身に馴染んでいく。それはある種、自己暗示に近いのかもしれません。
けれど私は、この自己暗示というものを、そこまで悪いものだとは思っておりません。

むしろ人間というのは、自己暗示によって成長する生き物なのではないでしょうか。
そう、”成長”なのです。仮面を被ることは、虚飾でも、強がりでも背伸びでもありません。自分自身を鍛え上げ、強く逞しくする行いに他ならないのです。

だからこそ、勿体ないのは、そういった仮面を自分自身ではないと決めつけ廃棄してしまうことです。
こんなの自分らしくない。
自分にはこんなことできない。
自分はこんな人間じゃない。
肝要なのはそれらを受容し、肯定することでございます。
例えば、背伸びをしている自分。
格好をつけている自分。
無理をして明るく振る舞っている自分。
私は、しばしば人が偽物として扱いたがるそれらを単なる虚像だとは思いません。
そうなりたいという憧れそのものが、既にその人の本性なのです。

人間の本性とは、仮面を剥いだその奥ではなく。
何に憧れ、何を選び、どんな仮面を愛したか、というその積み重ねそのものなのでございましょう。

ですから、改めて自分、というものを見つめた時。
どうか、「こんな自分では駄目だ」と切り捨てるのではなく。
「まあ、こうなりたかったんだな」と、少しだけ優しく受け止めてくださいませ。

そして是非、こうなりたいという自分自身を肯定することで、きっとより素敵な人生を歩めるはずでございます。

花王風格

ご機嫌麗しゅうございます。お嬢様。

いったい何が起きているのでしょう?

4月に28度の夏日があり、意味が分からないよ…と思った日があったのもつかの間、まだ5月だというのに東京で30度を超える真夏日、そして連日の激しい朝晩の寒暖差。

体調崩されておりませんか?心配でございます。

 

葉山でございます。

 

さて、今年は花の時期も例年に比べると大幅に前にずれ込み今が見ごろのはずの藤の花も東京ではすでに終わりを迎えているとの知らせを耳にいたしました。

花を見に行く予定を来週にしようなどと考えていると痛い目を見るなんてことも。

 

ならばと季節の花を見に今日も元気にお散歩でございます。

 

 

 

 

 

 

 

本日愛でに来た花は「百花の王」とも呼ばれる牡丹の花でございます。

 

牡丹は花が非常に大きく、可憐で優雅。

大きなものになると30センチほどになるものも。

薄い絹のような花びらが幾重にも重なり、まるでドレスの様。咲くというより花開くや花満ちるといった表現が似合う花。

ちなみに冬に咲かせる寒牡丹や冬牡丹なる品種もございますが、こちらは冬に咲くように工夫され手の加えられたものでございます。

雪の中で大輪を開いている姿を何かでご覧になったことがあるのではないでしょうか。

 

そして「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とまるで当家のお嬢様方を表現しているかのような言葉がとても有名ですね。

芍薬と牡丹は非常に似ている花ですが簡単に申しますと「芍薬は草として育ち」「牡丹は木に咲く」という違いがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

牡丹は華やかで凛としていて、優しく立派に気高く咲き誇っておりました。

牡丹は暑さや日差し、雨や湿気に弱い花。その華やかさとは裏腹に咲いている時間は長くはございません。

だからこそ「美しさの儚さ」や「今という時の尊さ」を人はこの花に感じてしまうのでしょう。

 

風に揺れる花を眺めながら、もしお嬢様がこの景色をご覧になられたらどの花をお好きになるだろうかと考えずにはいられない、そんな過行く春の一日でした。