オータムナル

春摘み紅茶の取り上げられ方にくらべ、秋摘みの名がお嬢様の口にのぼる機会は多くないように感じます。

いかがお過ごしでしょうか。

伊織でございます。

 

ダージリンでは、春摘みを「ファーストフラッシュ」、初夏の夏摘みを「セカンドフラッシュ」、秋に摘まれるものを「オータムナル」と呼びます。

春と夏には「一番」「二番」とそれらしい序列が付いておりますのに、秋だけ季節名そのまま、三番手と、同じ尺度で呼んでもらえない時点で、すでに控えめな扱いと感じざるを得ません。

 

 

この秋摘み、オータムナルは10月から11月ごろに摘まれる茶葉がそれにあたり、早いものなら11月の末から12月の初頭には日本国内でも目にする機会が出てまいります。

 

 

春摘みは若葉のみずみずしさ、夏摘みは旬の香りの深さ、と特徴をひとことで表せる中、秋摘みは「まろやか」「落ち着いた」と、どこか角のない形容ばかりが並び、その流通量もあわせて、やはり控えめな存在に収まっております。

とはいえ、そのまろやかさこそが、ミルクを合わせるときや、冷え込む夕方の一杯目には頼もしいのではないか、というのがわたくしの勝手な想像でございます。

ダージリンはストレートで、というのが通説かもしれませんが、ミルクとともに召し上がるという、楽しみ方の幅が増えるのは利点のひとつではないでしょうか。

もちろん、茶葉の個性は年ごと、茶園ごと、さらにはロットごとにも異なりますから、秋摘みはこうだと言い切ることはできません。

 

 

紅茶を、ダージリンを好み、ご興味の幅が広がりましたら、ぜひともいぶし銀な魅力をもつオータムナルにもご挑戦くださいませ。

さて、お嬢様、本日はどんな紅茶をご用意いたしましょうか?

怖いほど 人気の歯医者 裏飯屋

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様、お坊ちゃま。
藤波でございます。
ようやく曇天も晴れ渡り、涼しい風が秋の訪れを予感させますが、いかがお過ごしでしょうか。

10月といえばハロウィン!
私が一年の中で一番好きな行事が訪れますね。
私は毎年、小さなお子様に手作りのお菓子を配って密かにハロウィンを満喫しております。

お子様から「トリック・オア・トリート」と言葉をしっかり頂戴してからお菓子を配るのですが、この言葉はどこからやってきたのでしょうか。

お屋敷の書庫を漁ってみたところ、それらしい伝承が見つかりました。

中世のイングランドやウェールズでは、貧しい人や子どもが家々を回って死者の魂のために祈りを捧げ、
その代わりにスパイスの効いた小さなケーキ(ソウルケーキ、十字の印が押されている)をもらって回る「souling」という風習があったそうです。
どうやらケーキを食べることで煉獄の魂を救うと信じられていたそうです。
歌も残っていて、「A soul cake, a soul cake, please good missus, a soul
cake…」(ソウルケーキを、ソウルケーキを、どうか親切な奥様…)といった歌詞で歌われていたそうです。

砕けた表現をするならば「死者の魂の安寧のためにお菓子をください」とも取れるでしょうか。

こうして文に書き起こしてみると、「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ」のニュアンスにも近いように見えますね。

…こうしてお菓子の話をしているとお腹が減ってまいりましたので、今年はクリームたっぷりのカボチャタルトをお作りいたしました。

…申し訳ございません、気づいたときにはひとかけら分無くなっておりました。
探しても何処にも見当たりませんでした。
一体どちらへ…?私には皆目検討もつきません。

 

けぷ。

藤波

山梨ワイナリー

ワインは基本的に赤も白も甘口が好みです。
ご機嫌麗しゅうございます。山岡でございます。

先日当家ハウススチュワードであり
ソムリエを担っております能見と共に、
ワインデーを開催させて頂きました。

私といたしましては
使用人人生で初のワインデーのお仕えでございましたが
不束ながらも精一杯務めさせて頂きました。

前段といたしまして今年の初夏、
能見より「山梨ワイナリーに一緒に行かないか」
というお誘いを頂き
ご一緒させて頂いた事がきっかけで、
今回のワインデーの開催に繋がりました。

何故誘って頂いたのか
そこには幾つかの理由がございます。

まずひとつ、普段からの関係性。
地下のティーサロンでは担当制というしきたりのもと、
主人にお仕えする為に我々は存在しておりますので、
使用人同士のコミュニケーションと、
そこから見える関係値というのは、
なかなかお嬢様方からは見えないものでございますよね。
そして山岡自身も能見自身も
自らどの使用人との関係値がどうという話は敢えてはしませんから、
より2人の関係性は見えないものだったかと存じます。
ですが実は、共有している時間は意外と多かったりするのです。お給仕の話やお屋敷の未来の話、お嬢様お坊ちゃまの事を思っての話など、私からすれば主に教えですね、意外と新人の頃からよくお世話になっておりました。

ふたつめは執務の内容。
私自身お屋敷で仕えるにあたって
もっとワインの勉強をしたかった為、
ビバレージユニットに記載されているワインや
セラーに仕舞われているワインの管理のお手伝いをしておりました。
最近はかなり手が離れてしまいましたがそういった背景も理由にあったかと存じます。

三つめは二人組で開催する何かしらの特別なお飲み物をご用意する日を一緒に行いたい旨を実現する為。
こちらは最初から目的としていたわけではありませんでしたが、きっとお互いの頭の中にはこういう未来も想像しながらの事だったのでしょう。
私も能見も幾度となくエクストラティーやカクテル、
彼に関してはワインのご提供をさせて頂いて参りましたが、
実は一緒に何かをご提供させて頂くというのは
まだ一度もなかったわけでございます。
ひとつめの理由に挙げた関係値が出来上がり、
一緒にエクストラティーやカクテルを行いたいですね!
という話をし始めてから最低でも、
早四年くらいは時間が経過したかと存じます。
ここまで機を逃すと最早何を理由に一緒に行えるのかという所もございましたので、
口実作りというわけでは無いですが
今回の誘いは非常にありがたい機会でした。

、、、
本当は旅先での事をしたためたかったのですが
ワインデー当日を経て思いの外、
「何故この2人でワインデーを開催したのか」
という疑問がお嬢様方の中にあられたように見受けられ、
そちらを思いながら日誌をしたためているとあっという間にこのような文章量になりましたので、
今回はこの辺にしておきます。
話題には賞味期限がありますから、
次にしたためる機会があるかはわかりませんし、
その頃にはワイナリー旅2回目の開催が終わっているかもしれませんけれども、
またお嬢様方に美味しいワインをお届け出来ますように、
今後とも知識見聞を広げていきたく存じます。

先のワインデーにてご用意いたしました品は、
ロリアンワインの白百合醸造より、
「勝沼甲州」と
フジクレールワイナリーより、
「百千AX3」でございます。

勝沼甲州は白百合醸造を代表する一本です。
シュール・リー製法で作られていて、
口当たりは水のような軽やかさで後味に日本酒を思わせるような甘さと程よい酸味が広がっていきます。
海外の辛口白ワインの酸味が苦手な方でも大変飲みやすい一本です。
こちらの酒造さんのラインナップの中には、
「アジロンダック」という希少品種の黒ブドウを使った甘口の赤ワインと、グラッパも自家製で作ってらっしゃるのですが、その二つが美味し過ぎて、現地では私はアジロンダックを買って帰りました。
いつかこちらのグラッパを用いたカクテルを作りたいとも考えております。

百千は百千と書いて「モモチ」と読みます。
創業60年を迎えたフジクレールがこの先100年,1000年先も続けられますようにと名付けられたシリーズです。
フジクレールさんで実際に試飲させて頂きました際美味しすぎて自身でも買って帰ろうか大変悩んだ品です。
AX3はアッサンブラージュクロス3という言葉の略で、
三種のぶどうを組み合わせて作っている事を表しています。
使っているぶどうは「カベルネソーヴィニヨン」「メルロー」「志太乃輝」の三種でして、
使っている品種の字面と公式からのタイプはフルボディとされているのですが、
実際飲んでみるとそこまで重さは感じず、
「飲みやすいのに複雑」という、
言葉では矛盾をしている、
味でしか感じられない感覚を楽しませてくれるワインです。

まだこの品に触れた事のないお嬢様方もこの機会に是非、出会われましたら試してみてくださいませ。

ひとつ、またひとつ

ご機嫌麗しゅうございます。
環でございます。

前回バラの話をさせていただきましたが、そのバラがいくつか咲いてくれました。

 

 

 

 

 

小さいながらも力強く、それでいて可憐に咲いております。
その命に携われること、寄り添えることに素直に喜びを感じております。

少しでも長く咲き続けられるよう、これからも水をあげ大切に育てていこうと思います。

またたくさん咲いたらご報告いたします。
楽しみにお待ちくださいませ。

燕定石

うさぎ、とら、

ねずみ、ひつじ、うし、、、

オセロにでてくる定石には動物の名前が多いのですが、

当初は十二支から名付けられていったんだそうです。

もちろん12種では足りませんから、猫、鶴、バッファローなんてのも出てくるのですが、

ここにも、燕が登場します。

縦取り→ 猫系 → No Cat → 燕

と変化しまして、比較的現れない戦術です。

好手を牽制しつつ手数を増やすといったところが、

相手の動きを見ながら急旋回するつばめに

なんだか似てるような……?

睡眠

ご機嫌麗しゅうございます。
米澤でございます。

お嬢様、お坊ちゃまは良質な睡眠は取れておりますでしょうか。
秋も深まり、布団の温もりが恋しい季節となりました。

こんな過ごしやすい季節こそ夜更かししすぎずに、
朝は早く起床し、散歩や筋力トレーニングなどをして清々しい一日を始めたいところでございます。

……ええ、気持ちだけは十二分にございます。

目覚ましを止め、「あと五分」と布団に潜り直す瞬間ほど、
自身の意志が試される場面もないでしょう。

明日こそは勝利を収めたいものです。

それでは良い夢を。

米澤

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

先日、幼馴染と呼んでも差し支えないほど旧い友人から、住まいについて相談を受けました。

仕事の都合で東京へ戻ることになったので、どの辺りに住むのがよいだろう、と。

職場の最寄りを聞いてみれば、偶然にも私に多少縁のある沿線にございましたので、いくつか駅を挙げました。

ここなら交通の便も悪くない。
こちらなら生活もしやすいだろう。
この辺りは坂が多いからやめた方がよい。

そんな程度の話です。

東京の土地という土地を知り尽くしているわけでもございません。たまたま昔の職場があった方面であり、私が知っていた。ただそれだけのことです。それでも、せっかくの旧友の相談ですから少しでも力になれれば、とない知識を奮ってアドバイスをいたしました。

すると、友人はそのうちの一つを気に入ったようで

「結構良さそうだな」

と、前向きに考え始めました。

であれば、その駅はここにスーパーマーケットがあって、こっちの方面には商店街があって……のような当たり障りのない会話を交わしていると、話の流れで、近いうちに子供も欲しいのだと聞きました。

そこで、ふと思ったのです。

これは結構なことをしているのではないか。

私としては、地図を開き過去を眺めながら「この辺りで良いのでは」と指を置いた程度でございます。

しかし友人が本当にそこへ住むことになり、その後子供が生まれ、そこで育ったならば。

その子供にとっては、そこが故郷になるかもしれません。

幼稚園も、小学校も、放課後に友達と寄る駄菓子屋も、初めて一人で電車に乗る駅も、その町になる。

同級生の一人にでも恋をして、青春の限りをその街で過ごす……。

そう考えると、人間一人の人生のかなり上流に、私の何気ない一言が紛れ込む可能性があるわけです。

少々恐ろしい話でございます。

しかし、さらに考えてみますと。

私がその沿線を知っていたこと自体、別に運命的な事情によるものではございません。たまたま縁があった。その程度です。

偶然私がその土地を知り。
偶然友人が私へ相談し。
偶然その候補を気に入り。

その結果、まだ生まれてもいない誰かの故郷が決まるかもしれない。

……人生。

高校時代の友人にも、似たようなことがございました。

同じ部活動に所属し、高校から大学までの七年間、共に汗を流した友人がおります。

随分真面目に競技へ取り組んでおりましたので、私はてっきり、そのスポーツに強い思い入れでもあったのだと思っておりました。

ところが後になって入部した理由を尋ねてみると、

「なんとなくだよ。ただ体を鍛えたかっただけ。ちょうど新歓で声をかけられたから」

とのこと。

その競技である必要すら、特になかったそうです。ウム、何とも身も蓋もない。

ところが、その程度の理由で始めた競技を彼は七年間しっかりと続けました。

そして今では、そのスポーツに関係する仕事までしております。

人生の大きな部分を占めるものが、最初は、

「なんとなく」

だったわけです。

もし入学した日に別の部活動の勧誘を先に受けていたなら。
もし同じ目的で別の競技を選んでいたなら。

彼の現在は、随分違うものになっていたでしょう。

さて。

人生の分岐点、という言葉はよく耳にいたしますね。

物語などでは些かドラマチックに描かれがちで、時には「この出会いが、彼の運命を大きく変えることになる」などとナレーションが入ったりもいたします。

つい、自分の人生にもそんな展開を夢見てしまうものですが。

実際の分岐点というものは、随分質素な姿をしているようです。

二本の道が光り輝き、片方を選べば栄光、片方を選べば破滅。そんな具合なら実に分かりやすい。

しかし現実には、

どの部活に入ろう。
どの町に住もう。
誘われたから行ってみよう。
安いからこちらにしよう。
今日は何となく、この道を通ろう。

その程度でございます。

我々は人生において「重要な決断」をしていると思っておりますが、その重要さに気付く頃には、たいてい決断から何年も経っているのではないでしょうか。

過去を振り返りながら、

「あれが人生の転機だった」

などと語る。

けれども、その日の自分は転機だなどと思っていない。
むしろ大抵、「まあ、いいか」くらいの顔をしているのでしょう。

後世の歴史書には大事件の発端として記される一日でも、当人にとっては、紅茶を濃く淹れすぎたせいで一本遅い電車に乗った、という程度の些細な出来事から始まっていたのかもしれません。

バタフライ効果、という言葉がこの話に適切なのかは分かりませんが。

小さな蝶の羽ばたきが、遠く離れた場所で大きな嵐を引き起こすかもしれない。

しかし、どの蝶の、どの羽ばたきが嵐に繋がったのか。
そんなものは、嵐が過ぎ去った後でさえ分からないのでしょう。

それでも我々は、過ぎ去った出来事を振り返り、あれが原因で、これが転機であったと、一本の物語に仕立て上げる。

自分の意思で切り開いてきたと思っている人生も、実際には無数の偶然を後から繋ぎ合わせたものなのやもしれません。

人生。

それまで何やら大層で、揺るぎないもののように思っていた「人生」という二文字が、途端に道端に転がるキャンディの包み紙ほどに、ちっぽけなものに見えてくるのです。

……ですが、それは寧ろ、肩の力を抜くには丁度よろしいやもしれません。

今日の何気ない一言が、二十年後の誰かの生活に残っているかもしれない。
今日何となく選んだものが、十年後には自分の仕事になっているかもしれない。
逆に今、大変重大だと思っている出来事が、数年後にはほとんど思い出せなくなっているかもしれない。

そう考えると、人生の何が重要で何がどうでもよいのかなど、今この瞬間には分かりようもございません。

ならば、あまり偉そうに人生を設計しようとするのも考えものです。

設計図など持っていたところで、数年後には勝手に増築され、知らない部屋が出来ているのでしょうから。

そして後から、

「なるほど、この廊下はここへ繋がっていたのか」

などと納得するのです。

人生というものは、そのくらい雑に出来ているのかもしれません。

さて。

友人が本当にその町へ住むのかは、まだ分かりません。

別の町を選ぶやもしれませんし、東京へ戻る話そのものが変わる可能性だってございます。
子供についても、もちろん未来の話です。

結局、何も起こらないかもしれません。

けれども、もし十数年後。

その町で育った子供が、

「自分はこの町で育ったから今の自分になった」

などと言う日が来たなら。

その遥か上流に、私が何となく駅名を一つ挙げた、さりげない午後のさりげない会話があるのです。

本人は、まず知ることはないでしょう。
私もその頃には、そんな会話をしたことなど忘れているかもしれません。

人生の分岐点とは、おそらくそういうものなのでございます。

……ふと、私自身が使用人としてお屋敷にお仕えするに至った、その日のことを思い返してみました。

やはりそれも、蝶の羽ばたきのような些細な偶然と、小さなきっかけによるものでございました。

その選択が私の人生に何をもたらすことになるのか、今はまだ分かりません。

それではいつかの将来。

ハウススチュワードに昇り詰め、時任執事や椎名執事を顎で使う未来か。

はたまた、何処かに旅に出て使用人ではなくなっている未来なのか。

或いは宝くじなどを当てて、私も大旦那さまのように沢山の使用人を抱えているやもしれません。

いずれにせよ、その未来に辿り着いた私が、今日という日をどのように振り返るのか。

……今は知る由もございません。

何しろ、今日が何の日であったのかさえ、まだ分からないのでございますから。