迷子のままで

犬や猫、はたまた金魚や雀は、どんなことを思って日々を
過ごしているのでしょう。
彼らに、記憶するという能力があることは確かでしょうが、
その記憶の中に、思い出と呼べる類のものは存在するのでしょうか。
過去を思って一喜一憂する――それは人間だけの持つ心の作用なので
ありましょうか。

持っているのは、手帳にペンに歳時記ひとつ――。
嫁菜の花咲くあぜ道は、視界の限り通る者も稲刈る者もおりはしません。
こんな所で迷っているから、さみしい作り話ばかりが頭に浮かんで
くるのでしょう。
散歩とは、なにも無計画に歩くことではございません。ようやく学んだ
気がいたします。

お体を冷やされてはおりませんか。
すぐに温かなお茶をお持ちいたしますので、お声がけくださいませ。
伊織でございます。


誰しも、失ってしまいたい記憶、けっして忘れたくない記憶を持って
いるのでしょう。私も多分に漏れず、どちらの記憶も持ち合わせております。
多くの場合、私を悩ませますのは失ってしまいたい記憶でございます。

もしも記憶がひとつの帳面に書かれた記録だといたしますと、そう
した困った記憶は、常に2項目、3項目という表層に近い場所に大きな
文字で記されており、帳面を開くたびに目について仕方がないものですが、
大切な事柄ほどちいさな字で項の深くに書かれて、普段は見つけにく
かったりいたします。
これが学業で用いる帳面であれば、大切なことほど大きく朱で書き込み、
不要なものは消してしまえるのですが、なんとも使いづらい帳面では
ございませんか。

以前より、私は花を生けることを好みません。
「生ける」と書けども、根を失っては死んだ花。
静謐な室内で鎮座させられた花々よりも、風雨にさらされながらも
生きんとする草花の姿こそ愛しく思えるのです。

古い学友たちと酒を酌み交わすような希有な機会がございますと、
背格好ばかり大きくなって気心が育たぬのは私だけではないよう
だと、少しばかり安心すると同時に、記憶の帳面がぱらぱらと風に
吹かれたように、一斉に項を開きます。
悪目立ちする困った記憶を引用するのが心を許した悪友の一団ならば、
隅に書かれたちいさな文字に虫めがねを当てるのは、写真の一枚すら
残せなかった――そんなたったひとりであったりするものです。

長いこと、そのひとりを友人とは呼びたくなかったものですが、
最後まで、友人以上の呼び方を得ることもございませんでした。
まったく、ちいさな文字を読もうとすると、否が応にも大きな
文字が目に入ります。
もしやこのちいさな文字は、入れ子細工の仕掛けの一部でしかない
のでしょうか。

花を生けることが花の骸を飾ることだと申したならば、私の暴言に
しかすぎません。
しかし野には人の手で生けられて、より真価を現す花もある
のでしょう。

嫁菜の花咲くあぜ道は、通る者も花摘む者もおりはしません。
虫めがねに拡大されたたったひとりの名前は、いつまでたっても
項の隅の文字のまま、声になることはないでしょう。
知らない名字の書かれた名刺を、帳面にはさんでおきました。
栞にするには写真でなくとも十分なのだと、誰か私に教えてください。

――暗くなってまいりました。
作り話を認めるにも、紙面がもう見えません。
わたくしに必要なのは、どうやら写真でも名刺でも、ましてや
歳時記などでもなく、電話か地図であるようです。