イト

ご機嫌麗しゅうございます、隈川でございます。

運命の赤い糸…
縁結び…
絆の綻び…

関係を糸に喩えた言葉をよく耳にします。なるほど、確かにと思わされますね。

私は常々、人と人との関係は編み物にも似ているのではないかと存じます。

一箇所、最初の結びを作るのは簡単です。

しかし、様々な場面で増えていく糸が絡まってしまわないように重ねていくためには、どちらかの糸を下に潜らせる必要があります。

特に隙間のない強固な繋がりを築くには、丁寧な思いやりを持って順番に互いを尊重する必要があるのではないでしょうか。

ときには間違い、ほつれてしまうこともあるかもしれませんが、それをどこまで気にするかはその方次第。

ほつれを直すためには一度どこが絡まっているのかを解明し、ほどき、編み直さなくてはなりません。

それには手間や時間がかかる上、もしかしたら同じ形には編み直せないかもしれません。

それでも、諦めず編み続けた先には元の形より素敵な仕上がりが待っている可能性もございます。

逆に少しのほつれくらい気にしない、というのもある種の解決策でしょう。
私はわりとそういうタイプです。

一番悲しいのは小さなほつれや綻びが気になって、編むことを諦めてしまうこと、糸を切ってしまうこと。

例えみっともなくほつれ、穴が空いたセーターであったとしても裸でいるよりはよほど温かいはずのに。
(もちろん、自身を締め付け苦しめるような不要な糸に関しては躊躇わず切ってしまうこともときには大切ですが)

いつでも相手の「意図」を正しく感じ取りたいものでございますね。

隈川

日の名残などを見る度に少し落ち込む

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。本年も宜しくお願い申し上げます。

私ごとながら1月10日で執事歌劇団に入団してから満6年が経ちました。

ステージの上であろうと屋敷であろうと、いついかなるときも使用人であることに誇りを持って務めてきたつもりでございます。

使用人として生きていくと決めてから、英国文化、使用人の歴史や伝統、屋敷でのフットマンとしての在り方を考え続けて参りました。

しかしながら、私が描く理想の使用人像と現実の自分自身には大きな差異があり、それは私自身の本来持っている気質の部分に由来しているようにも存じます。

使用人かくあるべし、という美学に羨望を抱けば抱くほどにコンプレックスは生まれる。

それでも、自分なりのやり方でこれからも使用人としての道を歩んで行くつもりでございます。

まだまだ未熟な手前ではありますがどうかこれからもお傍に置いて下さいましたら嬉しゅうございます。

…あと10年くらい努めたら少しは理想に近づけるのでしょうか。

隈川

フットマンの仕事

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。

気が付けば年の瀬、2019年も終わりを迎えようとしております。

この時期は屋敷の中も忙しない雰囲気で、使用人たちも年内に納めなくてはならぬ執務や給仕に奔走しております。「師走」ならぬ「使走」とでも申しましょうか。

特にフットマンたちはあれやこれやと大忙しでございます。

…え。
「フットマンたちはいつもはどんな仕事をしているの?」でございますか。

…左様でございますね。
一般的な屋敷ではフットマンと申しますと主人の外出時ご同行したり、客人の来訪時に不自由がないよう滞在中の手伝いをしたり。

他にもヴァレットや執事の小間使いのようなものと認識されているかと存じます。

(そういえば大昔のイギリスでは半ズボンで馬車の横を並走していたと聞きますから、運動嫌いの私からすると現代に生まれて本当に良かったと感じざるを得ません。)

しかし…最近、当家の自分以外のフットマンたちの執事日誌を拝読し返してみますと他の屋敷ならばフットマンには触れることも許されないような内容の仕事を一任されている者も多いようですね。使用人界隈ではかなり特異な環境でございます。

大旦那様のお人柄からなのか、使用人たち自身が考え、得意な仕事をフレキシブルに分担することを許されているようにも存じます。

それを踏まえ鑑みますと
「うわっ…隈川の執務内容、狭すぎ…?」
というどこかの広告のような不安を覚えます。

日々のティーサロンでのお嬢様の身の回りのお世話、ファーストフットマンとしての教育係、それ以外では課外活動として執事歌劇団で任されております執務ぐらいです。

思い返しますと【ティーサロン】【使用人寮】【講堂】を行ったり来たりの毎日。

私、凡そ6年以上フットマンとして屋敷に在籍しているにも関わらず、未だに敷地内で足を踏み入れたことのない場所すら沢山ございます。

例えば庭園の奥の森、当家抱えの職人たちの工房、大浴場、…etc.
ああ、実は馬房にも踏み入ることが少のうございます。(お恥ずかしながら馬車馬たちも名前と毛色が一致しているのは金澤の可愛がっている「田吾作」と屋敷に来たばかりの頃に門前で蹴られかけた「エリザベス」ぐらいのもの。他の馬は正式名称を知らぬので勝手に渾名で呼んでおります)

逆によく足を踏み入れる場所ですと、図書室は調べ物の際に重宝しますし、庭師とは世間話をしたり髪を切って貰ったり、あと現在は使われていない旧リネン室にこっそり毛布を持ち込んで時々包まってお昼寝をしたり…あ、これは他の使用人たちには内緒ですよ。

…そうだ、お嬢様!
来年はお嬢様のお時間のあるときに、こっそり一緒に屋敷内を探索してみましょうか。

どうか来年も宜しくお願い致します、お嬢様。

隈川

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。

以前、私が人生において大切にしている三つの言葉があると日誌で認めました。

この間は「受」について認めたので、今回は「負」についても少しお話し致しましょう。

「負」《まける、おう、ふ》

文字通りマイナスなイメージを受け取られる方が多いかもしれませんが、私はこの「負」が嫌いではありません。

お嬢様がまず最初に字面から想像されるのは勝負事における望まぬ結果、などでしょうか。

勝負には勝ち負けの基準が必ず設けられており、これを定めているのがルールです。

…ならば、負けることは悪いことという基準は一体何に定められていることなのでしょうか。

当然ながら状況によっては負けることにより自分にとっての不利益を強いられる場面もあるでしょう。

しかし、ときには「勝負とは必ずしも勝利を目指すべき」という理に背いたときにだけ見えるものがあるように存じます。

目的を意識して、勝ったときと負けたとき、それぞれに生じるメリットとデメリットを考えてみますと意外にも「負」けた方が好転する状況というのは多々あります。

逆に場合によっては勝つことによって不利益がある場合も。勝利によって崩れる人間関係、得ることによって捨てなくてはならないもの。

勝利という過程に執着しすぎると物事の本質を見失ってしまいます。敗北により潤滑に目的を達成できることもあるのです。

つまるところ、人生を長い目で見たときにその勝利は本当に自分に必要なのかを判断して、負けを選択肢に入れることがときには必要だというのが、私の勝負論でございます。

勿論、勝つことによって得られる栄光や勝利自体を愛する人も少なからずいらっしゃるので、そういった方を否定するわけではございませんが。

ただ私は個人的に無敵の勝者よりも優しい敗者に心惹かれてしまうのです。

以前にも認めたように「受」け取り方ひとつで見えている景色は大きく変わるもの。

「負」という言葉に限らず、潜在意識に根付いたマイナス=悪いものという感覚を取り除いて世の中を見渡すと、少しだけ肩の力が抜けます。

そうしたフラットな価値観さえ持っていれば大丈夫。

例え無表情の100人に嫌われたとしても、笑顔で100人を愛せます。そうすればまた別の100人が貴方の本質を見てくれるはずです。

余談ですが私は自分を嫌いな人間や心無い言葉を言う他人に出会ったときにはその人の幸せを全力で願ってみることにしております。そうすると案外「自分が嫌われることでこの人の心の平穏が保たれるならば、まぁいいか」くらいに思えるのでおすすめです。
「負け」ながらでも楽しく生きていきたいですね。

ところで「負」という字には、〜に相応しい、という意味もございます。

お嬢様を笑顔にするに相応しい使用人
である。そう「自負」できるようにこれからも日々精進致します。

隈川

ゆべしっ

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。

普段から様々な甘味を頂くことを好んでおります私ですが、つい先日新しい好物を発見致しました。

胡桃入りの柚餅子でございます。

柚餅子そのものはもともと食べたことがあって素甘などと同様もちもちした和菓子シリーズの中で好きだったのですが、胡桃が入ることでより食感も風味も良くなり大変気に入ってしまいました。

あと、名前の響きが良うございますよね、柚餅子。
ゆべしっ、ゆべしっ。

また見つけたら購入しようと思います。ゆべしっ。

隈川