シンガポールの夜

敬愛せしお嬢様へ

冬の息吹は増すばかりで留まる事を知らず
コートの襟を搔き合わせましても凍えを抑えられぬ日も多い事と存じまする
どうかお身体冷やしませぬ様、お出掛けからはなるべく日のあるうちにお戻りいただき
暖かきお部屋でお過ごし下さいませ。

さて、先日は山岡と共に、お嬢様にクリスマスカクテルをご用意すると言う栄誉を浴しまして
ありがとうございました。

ホットサングリアに温めたスパークリングワインを注ぐという異色の品でございましたが
楽しんで頂けたなら幸いでございます。

さて、何故スパークリングワインを温める等と言う暴挙に考え至ったのかと
そのようなご質問をよく頂きますが
これは遠くシンガポールに参りました時の体験に基づいてございますゆえ
そのお話など綴ってみましょう。

ご無聊の慰めにでもなれば、何よりでございます。

所要にてシンガポールに参りました夜。
かの高名なるラッフルズホテルをはじめ、大まかな名所も巡り終えまして。
ならば、しかと土地に根付いたお味も確かめようと、ホーカーと申します町場の屋台街に足を踏み入れた夜の事でございます。

言語は拙い限りでございましたが、幸いにして良き巡りに恵まれまして
気が付けば地元の方々と杯を交わしいろいろお話を伺いながら
地元のスパイシーなお料理と独特の味の地ビールに舌鼓を打っておりました。

その夜は、熱帯たるシンガポールにしては珍しく、やや肌寒く。
もちろん上着なども持たずにホテルを出てきた身に、煮込んだ蟹のスープなどが味も暖かさも染みたのを覚えております。

とはいえ微妙に寒いなぁと、身を時折縮めておりましたら
屋台の店主がしきりに私に何か仰ってまして
どうやら「暖かい酒が良いか?」と聞かれているらしいと理解した私は
「このような気候なのに、暖かいお酒もあるんだ?」と好奇心に駆られ
「一つお願いします。」とジェスチャー交じりにお願いしました。

すると店主は
周辺の女性陣が良く飲んでおられた、流行であったらしいスパークリングワインの小瓶を取り出すと。
何故スパークリングワイン?と首をひねる私の目前で、

スパークリングワインを瓶ごと、蟹を煮ていた鍋に放り込みました。

「はいっっっっ!?」
時任の口から出るとは思い難い甲高い悲鳴が飛び出てしまい、地元の皆様の爆笑をさそってしまいつつも、スパークリングワインは蟹と共に煮られていきます。

ほんの僅かな間だったとは思いますが
愕然とする私の前で、店主は網で小瓶を引き上げると、マグカップに瓶の口を当てるような形のまま、器用にボトルの栓を抜いてくれました。

随分な勢いで泡が溢れ、やや零れてもおりましたが、
そのままマグカップに満たされた、激しく泡を吹きながら湯気が立っている不思議な飲み物を
恐る恐る口に運びましたところ。

「美味しい。嘘だろう?」

普通に日本語で驚いてしまいましたが、
泡の柔らかさ、これでもかと溢れる甘いスパークリングワインの香り。
暖まった事で甘さと果実味が凝縮されたような味。
余りの事に愕然としながら、その不思議な一杯を頂いた。

そんな顛末でございます。

日本や世界の各地には、それぞれ独特の料理やお酒がございますが、
さらにそれぞれの下町にはまた、独自の味が眠っているのだと思い知った日でございました。

そんな経験が年月を経て、お嬢様にお届けしたカクテルに活かされるのですから、
人生とは何事も財産であると、有難く思うばかりの日々でございます。

さりとて、
見慣れぬ地での、ましてや下町での挑戦は10回中9回は大失敗に終わるものでございます。
ましてや、ご令嬢たる御身では冒険が過ぎるというものでございます故、真似をせぬようお願い致します。

代わりにまた、時任がカクテルを通して異国の街へとお嬢様をお連れ致しましょうね。