ことば

ひらがな、カタカナ、漢字、お嬢様はどれがお好きですか?

伊織でございます。

 

ものによってどの文字で書き表すのが正しいか、一定のルールがあります。

動物や植物は基本は漢字で書きますが、常用漢字でなければひらがななのだそうです。

学術的にはカタカナで書き記されます。

 

3種類も文字があるだけにルール化が必要だったのでしょうか。みんなが好き勝手に書き記してゴチャゴチャしたら確かに分かりづらいかもしれませんし、難しい漢字で書いたはいいけど誰も読めないのでは、文字の「伝える」という機能を果たすことができない、と考えたのかもしれません。

誰か賢い人に教えて欲しいものです。

 

それはともかく、同じ言葉でも表記が違えば感じさせる印象が変わるというのは、すごい機能だと思います。日頃何気なく使いつつも、意識してみると非常に表現の自由度が高いことがわかり、シンプルに「すごいなー」と感心するものです。

第二カ国語として日本語を学ばれる方々が苦心されるのも分かります。どれが現在の場面において正しいのか、もしくは最も効果的なのかを判断しなければならないのは、第一カ国語としているわたくしですら危ういのですから。

 

他の言語には他の言語ならではの特異な表現方法があり、他と比べて「すごいなー」と思える特徴があることでしょう。

勉強不足が否めませんが、少なくとも今自分が理解しうる日本語の表現にだけは目を向け続けていたいと思います。

想像力

想像力があるとか無いとか、問えば問うほど紡ぎ出される解答の想像力のなさに愕然とさせられます。

いかがお過ごしでしょうか。

伊織でございます。

 

人間いろんなことを考えます。

お嬢様もわたくしも八幡も、日々いろんなことを考えています。

考えている内容は「本当」のことばかりとは限らないのではないでしょうか。思考の中で嘘をついているのではなく、現実ではない(起きていない)ことを考えていることの方が多いのではないかな、と思うのです。

未来のことであったり、もしかしたらというifの世界のことであったり、内容は様々のことでしょう。

すでに経験したことでないのだとしたら、すべてが想像の産物と言えないでしょうか。明日のことも、もしもあの時リンゴを買っていたら、なんていう現実に起きていないことを考えているのですから、みんな想像力が生み出した幻影なのだとわたくしは感じます。

 

難しい定義だとか仕組みだとか、そういうことは賢い人たちに任せておくとして、シンプルにわたくしは人間ずっと絶えず想像し続けているのでは、と思うのです。

だとしたら、想像力があるとか無いとかという問答は意味をなしません。みんな「ある」で○がもらえることでしょう。

 

なかなか他人が思いつかないようなことを考えつくから想像力がある、という風に表現されることもありますが、むしろ日常的には「他人が思うことを等しく考えつく」能力としての想像力に長けている方がよっぽど上手に生きていける気がします。

 

こうしてアレコレ書いている内に着地どころを失い、最終的にきちんと答えを導き出すことができないでいると、やっぱり何かしら想像力の一部が機能してないなぁ、と自身にがっかりするのです。

 

閉じた感覚をもう一度開くのは大変です。

開いているなら、けっして閉じないように五感を働かせ続けて下さい。

想像力は内からはやってきません。外から入ってくるものがなければ、想像の種すら生まれることはありません。

昔過ごした場所がどうなっているか、時折ふと気になる時がございます。

伊織でございます。

 

都会は都会で、田舎は田舎で、年月が経っても意外と大きく印象が変わらない場所がほとんどなのかもしれません。

わたくしが生まれ育った町も、お屋敷を取り巻く大都会も、変わってはいるけど変わってはいない、そんな感じがいたします。

変わったところが目につくと同時に、変わっていないところを意識的に探してつなぎ合わせて、変わっていないあの頃のままにしたいと願っているのでしょうか。

 

変わってほしくないなと思うのは、ただただ自身の記憶との差違を拒むだけのわがままなのでしょうか。

 

わたくしが留学していた小さな町は、当時からすでに時代の中に取り残された、というか、ある一定の時点から近代化を拒み続けているという印象の田舎町でした。

当時いまだにヒッピーがサンダルを手にして裸足で町中を歩いていたり、そんなもんだから商店の入り口には「Shoes Required」のサインが出ていたりしたものです。

世界中どこにでもあるような大フランチャイズすら1店舗もなく、ファーストフード店ですら個人経営のお店しかありませんでした。

 

あの町は今も変わらず何十年も前から姿を変えずにあるのでしょうか。

足を運んで自らの目で確かめる機会がつかめぬまま、まだ何年も疑問を抱き続けるのだろうと思います。

現代的なテクノロジーを駆使すれば、今の町並みがどんな様子かなんて確かめるのはいとも簡単なことだとは知りつつも、そんな技術で町を盗み見るのはあの古くさくて頑固な町の意思に反するように感じてしまうのです。

 

あの町に住んでいた人がみんな変わらずそこにいるだなどとは信じていません。ただ、せめてうわっつらの風景だけでも変わらないでいてほしいと思うのは、やっぱりわたくしのわがままなのだろうと思います。

お友だち

久々に何か生き物を飼ってみたいなと思う今日この頃です。

伊織でございます。

 

何を飼うかというのが問題です。

使用人宿舎で面倒が見られる範囲ということになりますから、室内でちんまりと世話ができる生き物がよいなと考えております。

さらにわたくしは動物の毛などで鼻炎を起こしてしまいますから、なるべく毛は少ない方が理想です。

以前ヤモリを飼っていたこともございますし、また爬虫類を迎えるというのもありかなぁと思っておりますが、お嬢様は爬虫類と聞くと苦手意識を持たれるでしょうか。

 

命を迎えるわけですから、慎重に検討したいと思います。

ご報告をお待ちくださいませ。

懐メロ

お嬢様は音楽を聴きますか?

伊織でございます。

 

わたくしは私的に音楽を聴くことはおおよそありませんが、ふと耳に入ってくる音楽というものは存在します。街中の至る所で流されている音楽は、聞く側の好みを問うことなく投げ続けられるものです。

流行っているのであろう音楽の種々は、国内外を問わず意識しないうちに記憶にすり込まれているのでしょう。

 

ごくまれに、急に古い音楽が耳に入ってくることがあります。

古いと言ってもクラシックや60’sなんていう古さではなく、絶妙にくすぐったさを感じさせる80~90年代のものです。

なぜこんなにもくすぐったさを、原因不明の気恥ずかしさを感じなければならないのか、いまだにわたくしには分かりませんが、どうもこのあたりの音楽が有線なんかから聞こえてくるとむずがゆくなるのです。

お嬢様はこのような体験はございませんか?