変身5

(もし、それまでに貴君が死んでしまったら元には戻れず、猫の姿のままあの世行きだ……)

目が覚めると明石太郎はアパートとそれを囲むブロック塀の間に倒れていた。

「ん、ん~……。どうやら気絶していたようだな」
明石太郎はゆっくりと体を起こし、先ほどの出来事を思い返した。
「それにしてもあの夢。まさか私の人生でこんな不可思議なことが起こるとは」

「あの死神と名乗る毛玉は24時間経てば元の姿に戻せると言った。しかし、それまでに死んでしまうと……」

「だが、それはそれだ!」

明石太郎は猫になったらやってみたいことがあった。

~屋根の上でせかせか働く人間たちを見下ろしながら、日がな一日のんびりする~

「これは絶対に叶えたい!」
そして明石太郎には、屋根の上として相応しい場所に心当たりがあった。

「目指す先はアパートの屋上だ!」

屋上に辿り着くためには、アパートの内廊下から階段を使い上る方法と、アパートの側面にある非常階段を使う方法の二通りある。普通なら前者を選ぶのだが猫の姿となると話が変わる。内廊下は安全だが人間に見つかる可能性があり、また階段を上った先の扉には鍵がかかっており、大家さんの手助けが必須である。それはどう考えても不可能だ。
その点非常階段は地上に扉があるとはいえ、それは格子状で猫の姿の明石太郎であれば容易にすり抜けられる。さらに階段を上り切れば多少危険だが壁を伝って屋上に上がることができる。

「よし」
明石太郎は落ちてしまう危険などは一切考えず、屋上に行くことにした。

非常階段を上りきると少し開けた場所に来た。
そこは屋根が無い3メートル四方ほどの空間で、建物の壁側にはアパート内に続く扉があり、それ以外の三方向は大人の肩の高さくらいの柵で囲んでいるだけだった。

「え~と……むっ!あれだな」
アパート内に続く扉の上の方を見ると、屋上に続く梯子が壁にくっついていた。下まで梯子が伸びていないのは、万が一にも子供が上らないようにするためであろう。

「やはり柵に上がらないと梯子には届かんな」
柵の外側はもちろん何もない。地面に落下するのみだ。

「行くか」
その時、またふと先ほどの死神のセリフを思い出したが、やはり屋上への魅力の方が上回った。

明石太郎は真剣な眼差しで柵の上部に目をやった。
そして「はっ!」と、今までにないくらい軽やかにジャンプした。

「いいぞ、高さはぴったり。あとは着地するだ……。なにっ!?」
が、思ったよりも柵の幅が狭く、着地と同時に少し外側によろめいてしまった。
「うぐっ…………!!落ち着け!」
明石太郎は焦らず慎重に体を逆側に傾けた。

そしてゆらゆらと不安定ながらも、なんとか着地に成功した。
「よ、よし第一段階突破だ!」
ただ、気を抜くとバランスを崩してあっという間に地上へ落ちてしまいそうだった。
「すぅ~、は~」
明石太郎は、ゆっくりと呼吸を整えた。
すると少しずつ、体の揺れもおさまっていった。

「よし、あとは梯子を掴むだけだ」
明石太郎の集中力は徐々に上がっていった。そして、

「今だ!」

そのジャンプはさらに軽やかで、前足と後ろ足には無駄な力みが無く、一切すべることなくジャンプに成功した。あとは届くかどうかだけだった。

「まずい、距離が!いや、まだだっ!」
明石太郎は右の前足だけをグイっと梯子の方に伸ばした。

ガシっ!

空中を舞った茶トラ猫は、どうにか梯子に右前足を掛けることに成功した。

「はぁ、はぁ、やった……」

そして前足の関節を引っ掛けながらゆっくりと梯子を上った。

「着いたー!!!」

屋上は穏やかな天候の影響もあってか、思っていた以上に極上のポカポカスポットだった。

明石太郎は仰向けに寝転がった。
「最高だ。私が求めていたものがここにある」
空は青く、ほどよく雲がかかり、たまに吹く爽やかな風がとても心地よかった。

「思えば艱難辛苦の道のりだった」
明石太郎は朝からの出来事を思い出し、感傷に浸った。

「多くの困難を乗り越えたんだ、あとは何もかも忘れて、この有意義な時間をたっぷり楽しんでも文句は言われまい。まずはお昼寝でもするか!」

そうして明石太郎はゆっくりと目をつむろうとした。が、その瞬間後方から何者かの声が聞こえた。

「ほー、ここにお客さんとは珍しい」

(む!誰だ。まさか人間!?)
明石太郎はパッと瞼を開き、振り向いた。
すると一匹の三毛猫が座っていた。

(そうだった、私は今、猫の言葉も理解できるのだった。ん、しかしまて。それはいいとしても何だあの猫は?)

よくよく見てみると、その猫は人間のようにあぐらをかき、右の前足で串に刺さった焼き魚を器用に持ち、齧りついていた。

そしてその三毛猫はゴクンと魚を飲み込むとまた何か話し始めた。

「ふむ、しかしおかしいのう。ここに猫は来れないはずなのだが」

「な、なんだお前は!?」

「ん?わしか?わしは猫だ」

「そんなことは分かっているわい!何者かと聞いているのだ!」

「う~む」
その三毛猫は少し考えてまた口を開いた。

「まあ、他の猫よりも少しばかり気ままに暮らしている猫ってとこかのう。あとは周りからはミケと呼ばれているくらいか…」

(なにも分からん。名前もそのままではないか)
明石太郎がその答えに呆れていると、今度はそのミケという猫が質問をしてきた。

「おぬしはこの辺りでは見かけない顔だが、名は何と言う?」

明石太郎は、猫がフルネームで答えるのは変かなと思いつつも、「明石太郎だ」と答えた。

「明石太郎?苗字があるのか?ということはおぬしは飼い猫か?」

「いや、そういうわけではないが……(やはり変だったか)」

「まあよい。して、太郎よ。おぬしはそちら側の壁を伝って上ってきたと見えるが、梯子を使ったのか?」

「え、あ、いや…」
明石太郎は猫らしからぬ方法でこの屋上に来たことを、目の前の三毛猫に話してよいものなのか迷った。

明石太郎がもごもごしていると、その三毛猫が突然持っていた焼き魚を半分に千切り、ふいに明石太郎めがけて放ってきた。

「うわ!」ぺしっ
明石太郎は突然の出来事で、反射的に前足で魚をはじいた。
「な、何をする!」

するとその三毛猫は「なるほど」と、何かに納得しニヤリと笑った。

「お、おい聞いているのか!」

「いや、すまなかった。それは餞別だ。恐らく、ここに辿り着くのは容易ではなかったであろう。それはわしお気に入りの焼き魚だ。それを食べて少し休むといい」

明石太郎はその三毛猫の行動の意味がまるで分からなかったが、傍らに落ちた焼き魚の匂いはとても魅力的だったので、とりあえず頂くことにした。

明石太郎は焼き魚を食べ終えたあと、最もリラックスできる横座りで休みながら、ミケに質問をしていた。

「つまりこの辺りは二つの組織によって支配されているのだ。一つが虎ノ進親分率いる寅組。善悪で言うと、まあ善だな。そしてもう一つが牛鬼親分率いる丑組。こちらは根っからの悪だのう。」

「はえ~」
ミケは自分自身への質問は曖昧な答えしか返さなかったが、それ以外の質問は何でも答えてくれた。

「じゃ、じゃあ。ミケはどちらに所属しているのだ?」

「わしは、まあ一応……」と、言いかけたとき、ふいにミケが何かに気づいたように立ち上がり、屋上の縁までてくてく歩き始め下を覗き込んだ。

「どうしたミケ?」

「見てみい、太郎よ。噂をすれば何とやらだ」

明石太郎もミケの隣まで歩いていき下を覗いてみた。
そこは丁度アパートの正面側で、前に開けた広場がある場所だ。
そしてその広場の真ん中で数匹の猫たちが何かをしているようだった。

「あっ!」
さらに目を凝らしてみてみると、左右に三匹ずつ猫が分かれていた。が、そのうちの左側の二匹はぐったり倒れており、もう一匹もぷるぷる震えているようだった。

「ありゃ、寅組と丑組の下っ端たちの小競り合いだな。見たところ丑組が優勢か」

「助けよう!」
明石太郎はミケにそう呼びかけた。しかし、ミケは広場を見たまま返事をせずに、何か考えている様子だった。

「おい!早くしないとあの猫もやられちゃうよ!」

「いや、わしはやめておく」

「えっ?なんでさ」

「猫の争いに干渉するのは気乗りせん。それにそもそも争いごとは好かんのだ」

「いや、あんたも猫だろうが!もういい私一人で行く!」

「そうか、頑張ってくれい」

「この猫でなしが」

「まあまあそう言うな。わしにも事情があるのだ。それにここまで上ってこれたのなら、あの連中くらいおぬし一人でなんとかなるだろ」

「ふん。じゃあ行ってくる」

「無理するなよ」

かくして明石太郎は見知らぬ猫の窮地を救うべく、アパートを駆け降りるのだった。

「さすが猫の体だ。降りるときは楽ちんだ」

「待ってろよ、今ヒーローが助けに行くからな!」

終わり。