欄外/三時四十一分の誓約

我が敬愛せしお嬢様、時任でございます。
真夏の日々も終わり、静かな秋の日々が近づいております。
これからまた、気候が変わってまいりますゆえ、お身体の具合を崩されませんよう、日々お気をつけくださいませ。
そして、味本や谷が狩り捕って来る秋の風味を楽しみに、元気な笑顔でお戻りくださいませ。
時任たちはいつでも、お嬢様方のお戻りをお待ちしております。

さて

それではいつもの、寝物語代わりの戯言でございます。
今回は閑話休題的に、ちょっとした罪の告白をさせて頂きます。
私、お嬢様方を謀っていた事が一つございます。
お見送りのときや、ご予定を申し上げるときなどに、私がお嬢様の前で確認している懐中時計でございますが。

…実はあの時計は、動いておりません。

実のところ、時間は常に把握しておりますので、懐中時計は無くとも執務に支障はないのでございます。
ですが、当家執事としての様式上、懐中時計なしというわけにもいかず、形式として動かぬ懐中時計を装備しております。

もし機会があれば、一度ご覧くださいませ。
三時四十分。その時刻から一秒とも変わる事無く、古びた小さな懐中時計は、私のポケットの中で眠り続けております。

幾度も、折角所持しているのだし、街の時計屋に持っていき直そうかと思いました。
しかし、それを思いとどまった理由は、この時計が前任ハウスステュワードから賜った物であることに起因しております。

私がまだ執事も拝命していない、見習いとして勤めておりましたころ。
執務室の整理をしていたら転がり出てきた、古びた懐中時計。
その机を使っておられた御方に、これはいかが致しましょうか?とお尋ねしたところ、「もう動かなくなって、新しい物を頂いているから」「なんだったら、君が使うといい。」と冗談交じりに私の手にお戻し頂いた時計なのでございます。

言霊…と言えば極端かもしれません。
しかし、人は時に無意味なまでに、些細な言葉をいつまでも忘れぬことがございます。
私は、この手にこの時計を受け取ったときに頂いた言葉を、忘れることはできません。
「代わりに、立派な執事になって、お屋敷を護ってくださいよ。」

今はその御方も去り。雪村・豪徳寺と言う新たなハウスステュワードにも就任頂き。
当時は黒ベスト姿のページボーイだった私も、身の程過ぎたことに執事にお取立て頂き、グルームオブチェンバーなる御役まで頂戴しております。

それでも。
私はあの日に賜った言葉に足る執事になれるまで…お屋敷を。皆を。揺ぎ無く護る執事となるまで。
この時計を動かすことはできないのです。
恐らくはただの意地でございましょう。そんな理想論のような執事には、辿り着くことすら難しいのかもしれません。

それでも、私はそれを諦めず。
苦難在りしときにはそっとポケットの中の懐中時計を握り締めて、日々の執務に挑んでいきたく思います。
だからお嬢様。
どうか、この動かぬ懐中時計を持ち続けることをお許しくださいませ。

いつの日にか必ず。
胸を張って、この時計を動かすことをお約束いたします。

理想の給仕を求めてこの地に流れ着きました。
何者になろうとも。何処へ流れ行こうとも。その意思は変わることはございません。
いかなる運命の変転に流されようとも、いかなる不条理な障害に妨げられようとも。
ただ、その一心のみを愚直に貫かせて頂きます。

この時計が三時四十一分を指すとき、より豊かな喜びを、より安らぐ寛ぎを、お嬢様方にお届けできるように。

「お嬢様への手紙~横浜紀行・弐」

我が敬愛せしお嬢様。ご機嫌麗しゅうございますか?時任でございます。
抜けるような青空には、筆で掃いたような鮮やかな白い雲が流れ、元気な蝉の声
が、夏という季節の到来を誇示するかのように鳴り響く…。
世はまさに真夏と言うべき季節のようでございます。

最近はドアマンを仰せつかることも多い時任でございます。
扉を護らせて頂いている間は、外界から漂い込む陽光に怯え、夏の暑気を感じて
はお嬢様の身を案じております。

お嬢様方、夏の太陽の下、向日葵の花のように微笑むお嬢様方も確かに美しゅう
ございます。
ただ、お身体に障るといけません故、どうか日傘と帽子はしっかりと携えて下さ
いませ。
この夏らしき真夏の日々に相応しく、白いつば広の白帽子に、軽やかなレースの
白日傘などいかがでございましょうか?
輝く陽光の下、青空の下に映える清楚な白いお姿で、笑顔でお戻り頂けるお姿を
、私どもは眩しさに眼を細めながらお迎えすることでございましょう。

――…あちちちちち。

なんにせよ。このように如何にも夏らしい夏は数年ぶりのように存じます。
お嬢様方、くれぐれも日中は涼しくお過ごし頂き、無理をなさってお体の具合を
崩しませんよう、ご自愛下さいませ。
私どもは、お屋敷を涼しく整えながら、いつでもお帰りをお待ちしております。

さて、それでは今宵も駄文を添えさせて頂きます。
どうかお休み前のナイトキャップ代わりにでも、お楽しみ頂ければ幸いでござい
ます。

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お嬢様への手紙~横浜紀行・壱

我が敬愛せしお嬢様、ご機嫌うるわしゅうございますか?時任でございます。

春も梅雨も何処へやら、世は早くも真夏の装いでございます。
お昼のお使いも命懸けになってまいりました。日陰から日陰へと、陽光に焼かれ
た身体から白煙を上げつつ駆け抜ける日々でございます。
…大旦那様、なぜわざわざ私をお昼のお使いに出すのですか…。

とかく、この季節は体力勝負でございます。
暑さに食欲のわかぬ日もありましょうが、お嬢様がたは太陽ごときに屈服せず、
誇り高くしっかりご飯をお召し上がりくださいませ。

夏の陽射しの下、向日葵のような笑顔を湛えて御戻りになるお嬢様の姿を、お待
ち申し上げております。
その笑顔だけが、私が唯一愛することのできる太陽でございますゆえに。

それでは、この先は例によりて戯言を綴らせていただきます。
どうかお嬢様、この先はお休み前のベットか、退屈な馬車の旅の途中にでもご覧
くださいませ。

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お嬢様への手紙~朝を司る者たち

我が敬愛せしお嬢様、ご機嫌麗しゅうございますか?時任でございます。

つい先日まで、街行く人々は外套の襟を合わせ身を縮めて居られたというのに、
もう既に世は夏の薫りすら感じられるようでございます。
今年の季節は例年にも増して気紛れであられるようですね。まるでお嬢様のよう
…あ、いえ、失言でございました。ごほんごほん。

とはいえ、まだ陽が落ちれば肌寒くなる日もございます。また、急な雨の日もご
ざいましょう。
どうかお嬢様、当分はご面倒でも、肌寒くなられたときに羽織って頂く御召し物
と、傘の御用意は怠らぬようお願い申し上げます。

この季節に生き生きと咲き誇る庭園の華々のようなお嬢様の笑顔は、我ら使用人
の何にも代え難き慶びにございます。

その笑顔が曇る事なきよう、くれぐれも御身ご自愛下さいませ。

…それでは、毎回口喧しい事を申し上げましたが、これより後はいつものごとく
戯れ事にございます。
おやすみ前のひと時などに、ナイトキャップと共にお楽しみ頂ければ幸いにござ
います。

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お嬢様への手紙~桜とチェスボード

我が敬愛せしお嬢様へ。
ご機嫌うるわしゅうございますか?時任でございます。

気付けば桜も咲き誇り、薄紅の霧の如くに庭園を彩る季節となりました。
陽射しも大分暖かくなったと聞き及んでおりますが、三寒四温とも申します。油断して凍えたりなさいませんよう、上着はまだ温かいものをご用意くださいませ。

さて、そんな桜の季節でございますが。
私事にて恐縮ながら、時任めこの時期には恒例の用事がございまして、大旦那様にお休みを賜り些か遠出をしておりました。
今宵は、そんな休日のことを寝物語代わりに綴らせて頂きます。
どうか、お休み前でなのに目が冴えたときや。昼下がりにお暇ができたときなどにお読みいただけたら幸いでございます。

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お嬢様への手紙 ~ 爽やかな朝

おはようございます、お嬢様。時任でございます。

おやおや、まだおねむでございますか?どうかお目覚めくださいませ。
今日もよい天気でございますよ。
さぁ、カーテンをお開きいたしましょう。
爽やかな朝日を浴びれば、眠気など吹き飛びますよ。

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