羽音

湿気にやられております。
櫛方でございます。

つい先程から私は一匹の蚊と格闘しております。
少々季節外れにも関わらず、どこからか飛んできて目の前を一瞬通り過ぎた、
ただそれだけでこうも簡単に心が揺さぶられてしまいます。
「刺されるの嫌だなあ」
私は敵に囲まれた一人の兵士のような、カンフーの構えにもとれる動きをしながら、
見えない敵との戦いの最中、少々昔の出来事を思い出しておりました。



炎天下の夏。
幼い頃の私は友人と共に野山で虫取りに勤しんでいました。
何かを捕まえたいとは思えないような手振りで網を振り回してはすぐ休み、
列をなす蟻の流れをただ眺めるのを繰り返していました。

「あ、蚊に刺された」

そう唐突に言葉を発した彼の腕には、確かに1匹の蚊がとまっていました。
それはもう吸い尽くしてやるぞと言わんばかりの不動の構えの蚊を携え、続けて彼は口を開きました。

「知ってるか。刺された所の筋肉をこうやってな、力を入れると蚊が抜けなくなって、しまいにゃ吸い過ぎて爆発する。」

「なるほど」

まだその頃はそんなことある訳無いと、幼い体に疑心を抱くこともなく、
どんどん赤く膨らむ蚊と、力みすぎて頭に血を上らせ顔を赤くしている友人を見比べ、
蚊はおろか彼も爆発してしまうのではないかと、少し不安になりました。

「あっ」

その言葉が聞こえた時には赤く太った蚊は既に飛び立っていて、
彼はすぐさまそれを追って血液を取り戻そうとしますが、
手を叩く音だけが響き渡り、それはすぐにどこかへ消えてしまいました。

「あー、一瞬力を抜いたから。やられた。ほんの一瞬力抜いたからだ。」

そう言い張る彼の強がった背中に掛ける言葉は、どこを探しても見当たりませんでした。
ただ蝉の声だけがここに残っていました。

―――

なあんて事を思い出しておりました。

実際のところ蚊の針は短く人間の筋肉に辿り着くはずもなく、
抜けなくなったと言われるのは恐らく皮膚の伸縮によるものらしく、
そのうえ吸い続けて爆発もすることはないようでございますのでご安心を。

もし刺され腫れてしまっても、爪でバツ印をつけるのはお勧め致しかねます。
余計に痒くなってしまうとの事でございます。

それでは私はこのままもう少し、見えない敵と格闘したいと思います。
あの頃から成長した私を、見せつけてやろう。
その後にこの湿気をどうするか本気で考えたいと思います。

櫛方
Filed under: 櫛方 — 22:00